2010年09月23日

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     (7)

 

日記。

“ 今日も暑い一日だったね。蝉がうるさいくらいだ。 蟻は一生懸命働いていたよ。蟻とキリギリスか。

今日の練習は腹筋50回*3セット。背筋50回*3セット。腕立て伏せ50回*3セット。

その後で、ベンチプレスだ。腕がパンパンだよ。 コーチは鬼だ!

そうそう、僕の通っているスポーツセンターに新しいマネージャーが入りそうだ。

優しいマネージャーだといいけれどね。

ところで、みんなの夏休みの予定は?僕の夏休みはこんどの水曜日からだ。

予定としては、水曜日に海へ。木曜日は映画ビデオの一日。金曜日は……。”



彼女からのメール。

「デートの返事、ありがとう。水曜日の朝8時に、スポーツセンターの前に車で行きます。

この前はごめんなさい。

あなたのお母さんやお父さん、そしてあなたの気持ちなんて、私には理解できるはずもないのにね。     かしこ。」

 

僕からのメール。

「“マイサリ”のデータを見たよ。ハッキリ言って、良く分からなかった。

奇形児の生まれる確率だって、良く分からない。

きみが確率は高いというのだから、きっとそうなんだろうね。

このデータが得られた時に、どうして、この薬の販売を中止しれくれなかったのか残念に思う。

障害児が産まれる事がハッキリと分かっていたのなら、とても悔しい。でも、僕は、正直言ってこのデータについてはどうでもいい。

データを公開して、きみがクビになることも厭わないなら、それでもいい。このまま、闇に葬るなら、それはそれでいい。

僕は、製薬会社からの賠償金なんかで、車椅子を買いたくないしさ。

そんなことより、今は北海道のサロマ湖のレースで頭がいっぱいだしね。……海もね。

カサブランカは死んだおふくろも好きな映画だ。Here's to looking at you, kid.」

 

水曜日の朝、8時に彼女は言っていたとおりワンボックスカーでやって来た。

彼女は僕を抱き上げると助手席に乗せ、車椅子を折り畳み、後部座席にしまった。

「私の好きな江ノ島だけれど、いい?」

「Up to you!」

「OK! では、出発。」

エンヤの音楽を流しながら、車を走らせる。車のエアコンに直接あたるなんて、久しぶりのことだ。

まだ、夏休みに入っている人が少ないのか、道路は混雑もなく快適だった。

青いサマードレス。ヒマワリが咲いている涼しそうなサンダル。小麦色の腕がハンドルを楽しんでいる。

「好きな音楽は何ですか? 何をいつも聴きながら、あの日記を書いているんですか?」

「佐野元春、ボブ・ディラン、スタン・ゲッツ、ショパン。」

「ふーん、まるで、音楽のデパートですね。」

「きみは、何を聴きながら日記を読んでいるの?」

「山下達郎、ジョン・レノン、サザンオールスターズ、ラフマニノフ。」

「まるで、コンビニだ。」

「そうね、あははは。何か飲みますか? いつもの麦茶があります。」

「要らない。」

「遠慮なくどうぞ。最近、腕立て伏せをやっているんですよ。」

「マネージャーとして当然だね。」

「フフン!」

日差しが眩しい。喉も渇くさ、人間の生理だからね。

 

海岸は、結構な人出だった。

彼女は、車椅子をセットし、僕を乗せてくれた。

駐車場内は、車椅子でも移動できるが、砂浜は無理だった。

「ちょっと、待っていてください。先に荷物を置いてきます。」

ビーチサンダルに履き替えて、彼女は砂浜を走って行った。

屈託のない、明るい性格。顔に似合わず芯が強い。強い意志をもった健全な精神の持ち主だ。

「じゃ、行きましょう。」

僕を抱きあげ、砂浜を歩く。砂に足を取られながら、歯を食いしばりながら懸命にバランスをとって歩く。

ビニールシートに僕を静かに下ろす。ビーチパラソルの日影は僅かだ。今度は車椅子を取りに走っていく。

ラジカセからは、サザンオールスターズ。チャコの海岸物語。青い空と蒼い海。肌にまとわりつく潮風。

「はぁー、熱射病、ちょっと休憩。はーぁ。」

「マネージャー失格。」

「いいですよー。あのコーチに、私もしごいてもらうわ。」

彼女はビニールシートに倒れ込んだまま、息を整えていた。健康そうな背中が上下している。

ビーチボールに戯れる恋人達。浮き輪で遊ぶ子供。首をかしげて僕を見つめるカモメ。

「ビール飲んでいいですか?」

膝を抱えて、彼女が問い掛けてくる。

「遠慮無く。僕に麦茶を取ってくれる?」

「ハイ、どうぞ。じゃ、乾杯!」

「何に?」

「軽井沢ロードレースと、サロマ湖100Kmレースに!」

「乾杯。」

「Cheers!」

喉を鳴らして、ビールを飲む彼女。

「軽井沢は、9月10日でしょ? サロマ湖はいつなんですか?」

「多分、10月の最終日曜日。」

「そっちにも、マネージャーとして、参加しますね。」

「みんな喜ぶよ。それまでに、マネージャーとして一人前になってほしいもんだ。」

「もちろん! 海に入ります?」

本当に、僕の言うことを聞いていないんだ。

「無理。」

「でも、パラリンピックであなたと同じような人が、泳いでいる風景をテレビで見ましたよ。」

「お願いだから、無理を言わないでくれる? 僕とそういった特殊な人と一緒にしないで。」

「どうして? 本当にあの人たちは特殊なんですか?」

「……。」

「ふ〜ん。」

ビールを飲み、海の沖を眺める。何を考えているんだろう? 時折、悲しい目で遠くを見ることがあるのはクセ?

「僕は、別に泳ぎたくなんかないんだ。ただ、こうして海を眺めているだけでいい。」

「本当に?」

「本当に。」

「僕を苦しめないで欲しい。」

「……ごめんなさい。」

「気持ちはありがたいけれどね。時々、僕には負担に感じるんだ。なんでも僕に求めないで。僕はオリンピックの強化選手でもない、ただの障害者だからね。」

「でも、泳げたら素敵だと思って。一緒に水の中にも入ることができるでしょ。ただ、それだけです。私のわがまま。」

「きみも、泳げないんじゃなかったけ?」

「でも、そんなこと、練習するもん。昔の恋人とは一緒に入ったでんしょ……。」

「きみは、僕の昔の恋人じゃない。きみは今のままでいいんだ。比べる必要なんてない。比べることなんて意味が無い。」

膝に顔をうずめる彼女。

「そうですね。でも、少しでも役にたちたい。

少しでも早く、そう思っただけ……。」

暑い日差しが、彼女の首筋を焼く。

「ありがとう。」

「アイス買ってきます。」

ビーチサンダルを履き、砂浜を駆けていく。

止まったままのカセットテープをエンヤに替える。

“ Wild Child ”静かに、力強く、讃美歌のように、教会音楽のように流れるエンヤの声が心に染み込んでくる。

簡単に約束なんかしないで欲しい。簡単に慰めを言わないで欲しい。そう思ってずっと生きてきた。

でも、これは慰めだろうか?

約束? それとも希望?



(8)

 

「はい、アイス!」

「ありがとう。アイスが好きなんだね? 」

「えー。冬でも毎日食べているんですよ。」

「ふーん。」

「おいしいでしょ?」

「まだ、食べてない。」

「あ、そうか。早く食べてみてください。あははは。」

笑い上戸の彼女。人もつられて幸せになる笑い声と笑顔。

「アイス以外に、何が好き?」

「お漬物」

「え?」

「お漬物が好きなんですよ。変ですか?」

「いや、ちっとも。」

「あと、お風呂に入れる入浴剤にも凝っているんですよ。」

「へー」

「最近は、乳白色になるのが好き。十和田湖温泉巡りもいいかな。」

「あははは!」

「えー可笑しいかな〜?」

溶け始めたアイスに悪戦苦闘しながら、彼女も笑う。

エンヤの音楽が海岸に流れる。静かに、力強く。

彼女が微笑みながら、僕を見る。

「なに?」

「別に。」

どうして、そんなに優しい表情ができるの?

「なに?」

「なんにも。」

まとわりつく潮風。波音が大きくなる。男女の歓声があがる。

……。

「トイレに行きたいんだけれど」

「あ、はい。」

彼女は、車椅子を駐車場まで運ぶ。そして戻ってくると、こんどは僕を抱き上げ、砂浜を歩く。

ファンデーションとリンスと汗のにおい。柔らかい髪が僕の首筋にあたる。

僕を車椅子の乗せると後ろに回り、車椅子を押す。

「大丈夫。ここで、待っていて。」

男性トイレに入る。そして、また出ると彼女を呼んだ。

「だめだ。ここのトイレ、補助バーがない。」

「どうすればいいですか?」

「僕を後ろから支えて。」

「はい。」

……。

「どうもありがとう。」

「ううん、別に。まだ夕焼けには時間がありますね。」

「そんな時間までいるの?」

「夕日を見て、叫びましょうよ。」

「青春ドラマの見すぎ……。」


(上へつづく)

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    (6)


「違うわ!!」

彼女は、麦茶の入ったコップを落として立ち上がり、僕を見下ろした。

「それは絶対に違う! あなたのお母さんのせいなんかじゃない!!

あなたのお母さんは、ただ眠れなくて、お医者さんから出された薬を信じて飲んだだけ!

誰だって、苦しい時には薬に頼るし、まさか、薬でこんなことになるなんて誰も思わないわよ!!」



彼女の目から涙が溢れていた。

白い日傘が僕の膝に飛んできた。紙コップを握り締めて僕を見下ろす彼女。蝉が鳴いている。僕の地中の7年間。

死んだおふくろを許せぬまま過ごした7年間。いつも誰かを怨むことで、自分を慰め、消耗しつづけた7年間。

「あなたにお母さんの気持ちなんて分かりっこないのよ!

どんなにお母さんが自分を責めて、苦しんだことか分からないの?

どんな母親だって、自分の子供を苦しめるために産むんじゃないのよ。

幸福な人生を夢みて、産まれてくる子供を待ち望んでいたはず……」

僕は、彼女から借りたタオルを差し出した。

彼女はタオルを受け取ると顔に押し当て、ベンチに座り、顔を埋めた。

日差しが、傾いてきた。僕は麦茶を飲んだ。

「おふくろが、どんな思いで薬を飲んだのか分かる。あの人はもともと不眠症気味だった。

僕を産んだ後はますます、その不眠症が進んだんだ。カウンセリングなんて言葉がなかった時代に、おふくろは苦しんでいた。

そして、僕に車椅子の動かし方を教え、僕をできるだけ、いろんなところに連れていってくれた。

おやじもね、苦しんでいたとは思う。

そのデータを貸してもらえるかな? ゆっくり見てみたい。」



タオルから顔を上げた彼女は、微笑むと赤い目を僕にむけた。

「汗くさい。あはは、汗くさいわ、このタオル。 いいですよ、データを持っていって。はい。」

数字だけの、とても理解できそうもないデータを受け取り、僕も笑った。

彼女は僕の膝に飛んできた日傘と落とした紙コップを拾い、話しを続けた。

「ごめんなさい。本当にお母さんの気持ちも、おとうさんの気持ちも、あなたの気持ちも知らないのは、私ね。」

「傘まで飛ばして僕のおふくろを弁護したのは、きみが始めてだよ。」

「あははは、どうもすいません。ねぇ、軽井沢のレースに応援に行っても、いいですか?」

「別に、僕の許可なんて必要ない。」

「そうか。あっ、ここのマネージャーを募集しているのは、本当なんですね。受付のところに募集広告が出ていました!」

「うん、地味な仕事なんで、あまりなり手がいないんだ。」

「ひょっとして、あのコーチとも一緒に働けるかな?」

「もちろん。」

「ちょっと待っていてください。今、申し込んできます。コンタクトレンズもずれたみたいなので、それも直してきます。

ちょっと、時間がかかるけれど、待っていてくださいね。」

そう言うと、彼女は頬の涙を手の甲で拭い、日傘を置き、スポーツセンターに小走りに向かっていった。

行動力のある彼女……。

ベンチの上に置いてあるサーティンワンの袋に蟻が歩いていた。おまえ達も、暑いのにご苦労だな。

僕の頭に響く、彼女の言葉「お母さんのせいじゃない!!」。分かっているさ。おふくろのせいじゃない。

製薬会社のせい? 研究者の怠慢?  それで、この結果?  ふ〜ん、たいしたもんだ。 僕の36年間。昔の恋人。

蒼い海、プールサイドの歓声、ひとりで迎えた朝、悔しさで眠れぬ夜、誰からも愛されない恐怖、左手首の傷……。

動物実験? 催奇形成試験?  データ?  確率?  だから?  それで?  ……。握りこぶしを車椅子に叩きつける。

この痛みをどこに向ければいい?

「大丈夫?」

額に汗を浮かべた彼女が、僕を見下ろしていた。

「……大丈夫さ。マネージャーの口はまだ空いていた?」

「ええ。来週の日曜日から来ます。できるだけ、毎週来ますね。軽井沢のレースまであと1ヵ月ですもんね。 頑張らなくちゃ!」

「君の好きにすればいいよ。」

「そうします。ところで夏休みは?」

「今度の水曜日から次の日曜日まで。」

「ふ〜ん、水曜日か。水曜日に海に行きませんか?」

この娘は、僕の言うことなんか聞いていない。

「無理。」

「どーして?」

「来週の日曜日に、また。今度、来る時には軍手を忘れないように。麦茶おいしかった、ありがとう。」

彼女を置いて、歩道橋へ向かう。後ろから、彼女の足音。すぐに僕の車椅子の脇に並ぶ。

「どーして、無理なんですか?」

僕は黙って、歩道橋の上り坂を車椅子で登る。彼女が、車椅子の後ろにまわり、僕を押す。

「ありがとう、でも、大丈夫。これも練習だから。」

「あっ、そうか。」

黙って、歩く彼女。真っ直ぐ前を向いて歩く。僕は車輪を回しながら聞いた。

「何かのクラブのマネージャーをやったことは?」

「無いんです。私って、あまり器用じゃないんですよね。思い付くとすぐに行動に移すし、それでいて、いつもとんでもないドジをするし。マネージャーが勤まるかしら?」

「Patience。」

「忍耐? う〜ん、難しいかな。」

「だったら、海はもっと難しい。」

歩道橋の上り坂を登り、息を整える。下り坂が僕は苦手だ。いつも、歩道橋のちょど真ん中で止まり、心の準備をする。

車椅子は下り坂でもブレーキが利くようになっていたが、遠い記憶が僕を恐怖に陥れる。

レースでも僕は下り坂で、いつも抜かれてしまう。

「大丈夫ですか?」

「ちょっと呼吸を整えている。」

「そうですよね。この歩道橋の上り坂は、私でも結構きついです。

へー、ここからきれいに富士山が見えるんだ。

ワンボックスカーをレンタルすれば、いいですよね?」

「え?」

「海に行くときに、そのほうが乗り降りが楽でしょ?」

僕は答えずに、下り坂に向かった。

スピードを殺さないように、バランスに気を付ける。

まず、最初のスロープ。7mの下り坂。そこで、Uターンのカーブ。カーブで僕の心が萎縮すると、転倒する。

スピードを怖れずに立ち向かい、車椅子を完全にコントロールすればよい。

カーブを曲り、残り7mの下り坂。今日はうまくいった。

日傘をしまい、僕に遅れまいと懸命に走ってくる彼女。

「凄い! 凄いスピードで降りるんですね。怖くないですか?」

「別に。」

「私も海に行きたいの。」

「一人で行けばいい。でなかったら、僕以外とでも。」

「あなたも行きたいって、あんなに日記に書いていたじゃない?」

「無理。」

「どうして? どうして、そう決めつけるの?」

僕は、車椅子を止めた。彼女も止まって、僕を見下ろす。僕はため息をひとつ、つく。

「今までも、ずっとそう。大変なんだよ。」

「今までは、そうだったかもしれない。でも、こらからは違うかもしれないでしょ?」

「それも、きみがあの会社に勤めているから? それも罪滅ぼしなの?  会社に加担したくないから?」

「……。」

黙って、僕を見つめる。

「ごめん。でも、とにかく思っているよりも大変なんだよ。」

「やってみないと分からないから。私は、想像力がないの。どんなに大変かやってみないと、私には分からないの。」

「みんな、今までの人たちも、それで別れたんだ。」

「私は、あなたの昔の恋人でもないし、それに、今の恋人でもないわ。今のところ……」

頑固な性格。

「頑固なんだ。」

「あなたもね。」

「……。そう、そうだね。じゃ、あとでメールで連絡するよ。」

「やった!」

やれやれ。

「エンヤの Only Time が好きです。 あとね、イタリアが好きなの。」

彼女の優しい目が輝いている。笑顔がかわいい。

蝉の声が一層、大きくなった気がした。僕の7年間。



(上へつづく)


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    (5)


「あの時どうして、僕が練習している場所が分かったの? メールでは教えてくれなかったけれど。」

コーラを飲みながら、彼女の目を見つめる。

「日記。あそこに書かれていた風景を頼りにしたの。障害者スポーツセンターって都内にいくつもないのよ。」

頷く。微笑みながらミルクティーを飲むと彼女は、窓の外を眺める。



目を閉じる。

目が沁みる。エンヤの音楽が一日中、頭の中に流れていた暑い夏を思い出す。

目を開ける。

 

気がつくと頬杖をついて、やわらかな髪の毛を耳にかけ僕を優しく見つめている。

どうして、そんなに優しい表情が出来るの?

……今まで逢った誰よりも、きみは僕の心を捉える美しさを持っている。

心も、顔もelegantだ。



「海に誘ってくれたね。びっくりしたよ。」

「そう? 海は好きなの。 車椅子の人とは行ったことがなかった。私は泳げないし、体力にも自信はなかった。

でも、どうにかなるわって思ったの。あんまり考えて行動していないのよ、私って。」

「そうかな。」

「でも、夢が大切。夢が明日を作るの。夢と希望が私たちに明日を作らせる。そう思う。だから、私は夢を持っていたいし、あなたにも持っていてほしいの。

そう思ってさ、海に誘った。」

「ありがとう。」



僕は地上に出てきたばかりの蝉。明日を信じて、今をいきる。



(6)



僕のメール。

「どうして僕の練習場所が分かったの? 声をかけてくれれば良かったのに。 僕の練習風景がそんなに良かった?

マネージャーを募集中だから、参加してみない?

海は一度、女性と行ったことがある。もちろん、泳がなかったけれどね。 彼女の自動車に乗せてもらった。

でも、トイレに行けなくて苦しんだよ。いつも人と外出するときは、水分を取らないようにしている。

けれど、あの日は暑かったので、つい飲みすぎたんだ。その彼女も良くやってくれたんだ。それまではね。

だけど、どうしてもトイレには付き合えないってさ。おかげで、僕は膀胱炎にまでなっちまった。

彼女は練習にもよく来てくれた。レースの応援にもね。 でも、結局、親の反対やらがあって、それっきりさ。

だから、そんなに簡単に、誘わないでね。慰めならいらないしね。

きみはエンヤが好きなんだ。僕は知らないけれど、今度、レンタルショップに行ってみるよ。では、また。」

 

僕の日記。

“ 暑いね。 今日なんか、暑すぎて蝉が道路でのた打ち回っていたよ。

38度だ。信じられるかい? 扇風機をかけても熱風が来るだけだ。

僕が50Km走破すると5Kgは体重が減るんだ。みんな汗となって流れていく。 練習中に顔がざらざらしてくるんだ。

塩が出ているんだね。僕の顔は死海か?

軽井沢でのレースが決定! 9月10日だ。 鉄腕レースじゃないんだからさ、今日のような過酷な暑い日にならないでおくれー!! ”

 

彼女のメール。

「“マイサリ”の件を、上司に言ってみました。正攻法ではだめね。

既に患者団体とは示談が10年以上前に済んでいる。これ以上は、会社の責任ではない、と澄ました顔で言っていました。

では、このデータを公開してもいいのですか? と聞いたらウロタエテいました。データはもう自宅に持ちかえってます。

前にも言ったとおり、無料でホームページを開設できるサービスを利用して、データを公開しようかと思います。

なんのために、公開するの? ですか?  私が出来ることって、それくらいだから。

お給料を貰っている会社を売るようだけど。でもいいの。きっと、このデータを公開したところで何も変わらない。

私がクビになるくらいかな。

エンヤは、心を穏やかにしてくれるので、大好き。アイルランドの歌手で、お父さんはパブを経営しているのよ。       かしこ」

 

どうやら、彼女は僕の忠告なんて聞く耳を持ってないようだ。



エンヤを借りてくる。不思議なサウンド。透明なボーカル。僕の体と心を包み込む音楽。力強く、静かに歌うエンヤ。

それは、彼女のメールに書かれた言葉だったのかも知れない。

端整な顔をしたエンヤ。



目を開ける。

「エンヤって、端整でエレガントな顔をしているよね。」

「うん、私、歌も好きだけれど、彼女の顔も好きなの。」

「きみのほうが、エンヤよりもずっと綺麗でエレガントさ。 いつも、僕はきみの顔を見てボーとしているので、大切なことを聞き逃しているんだ。」

「美化しすぎ。」

「これでも、控え目に言っているんだけれど。」

微笑む彼女の美しさは、僕に森の朝を思い出させ、暖かな春を思い出させ、夢を忘れてはいけないことを教えてくれる。

目を閉じる。





炎天下、車椅子でスポーツセンターに向かう。

筋肉トレーニングのお陰で、1回のストロークで移動距離が長くなってきた。長距離は体力勝負だ。

これからは、持久力をつけるために、長距離をできるだけゆっくり時間をかけて走破する練習に変更する。

スポーツセンターの前にある長いスロープの車椅子用歩道橋を渡る。練習なんかより、ここが一番きつい。

やっとの思いで歩道橋を渡り、スポーツセンターに向かう。

日傘が見える。白い日傘の下に、ピンクのポロシャツ。色褪せたGパンに白いスニーカー。笑顔で僕を見ている。

近づくと、日傘をたたみ、走りよってくる。

「こんにちは。暑いですね。あっ、はじめまして、かな。メールでは何度も会っているのに変ですね。」

僕を涼し気に見下ろす。

「こんにちは。良く分かったね、今日が練習日だって。」

「だって、受付のところに練習日が貼ってあるんですもの。」

「そうか。そうだね。」

「タオル持ってきました。それと、麦茶。」

「ありがとう。」

「向こうの日陰のベンチで、練習が終わるまで本でも読みながら待っています。」

「じゃ、練習の後で。」

彼女は木陰に走り、ベンチに座ると白い袋からアイスを出し僕を見た。

イタズラした子供が親に見つかった時のように彼女は笑った。

そして、本を広げるとアイスを食べ始めた。

信じられない思いで僕は彼女を見た。会社をクビになることなんて、なんとも思ってないのだろうか?

 

1時間半の練習を終わり、スポーツセンターの外に出る。

彼女が出迎えてくれる。

「ホント、あのコーチ、素敵ですね。いくつなんだろう。」

「31歳。僕より5歳下。」

「ちょっと、練習を覗いてみたの。練習の時は、いつもあんなに厳しいんですか?」

「そうだね。だから、このスポーツセンターからパラリンピックに何人も選手が出ているんだ。」

「ふ〜ん。ハイ、タオル。」

「ありがとう。」

薄いブルーのタオルを借りて、顔の汗を拭く。石鹸の香りがする。

「洗濯して返すよ。」

「あら、いいのよ。洗濯は大好きだから。」

クラクションを鳴らしながら、コーチが運転する赤いファイアットが僕たちの隣りを通り過ぎていく。

「チャオ!」

コーチが僕たちに手を振りながら去っていく。

「いいなー、あんなふうに成りたいな。」

彼女が、車を首で追いながらつぶやいた。

「喫茶店にでも行く?」

「あの日影がとっても気持ちいいですよ。あそこで麦茶でも飲みませんか?」

僕と彼女は大きなポプラの木の下で涼を取った。

 

「これが、動物実験のデータです。これが、障害児が生まれる確率を求めた計算結果。

ね、妊娠初期で“マイサリ”を使うと、ほとんど流産するか、奇形のマウスが産まれているでしょう?」

A4の紙に打出されたそれは、僕には数字と英語の略語の羅列にしか見えなかった。

これが、僕の人生を変えたデータ? 全国の5000人の人間の人生を狂わせたデータ?

この数字の羅列は現実味が無い。この数字には、なんの痛みも悲しみも感じない。 ただの数字だ……。

その紙と彼女の顔を何度も見比べると、僕はため息をついた。

彼女の差し出してくれた麦茶を飲む。

「意味が無いよ、こんな数字に。こんな数字を世の中に出したところで、僕の体は変化しない。誰も喜ばないと思う。

きみは、クビになっても困らないの?」

「そうね、……それはまた後で。公開するかどうかは、また後で考えます。

それよりも、このデータをあなたに見せたかったの。」

「どうして?」

「あなたの体は、お母さんのせいでは無いことを言いたかったの。

これは製薬企業の怠慢と社員の馴合い、科学者の思い上がり、ありとあらゆる無責任の産物かもしれない、と思ったの。

私は、それに加担したくなかった。 まぁ、それはどうでもいいの。

とにかく、あなたのお母さんのせいではないことだけでも、分かってほしかったから、持ってきた。」

両手の指を擦り合わせながら、うつむいて話す彼女。

タバコを吸いながら、僕は自分の足を見る。



「私には何もできないわ。どうして“マイサリ”が障害児を作ってしまうのか、本当のところは理解できない。

普段、会社で仕事をしていても、意味の分からない言葉ばかり聞かされて、ほとんどコンプレックスの固まり。

まわりのみんなは、私なんかより、ずっと、とても頭が良く見えるわ。

だけど、私にだって分かることがある。私の勤めている会社の製品のせいで、あなたが車椅子に乗っている。

それは、事実。でしょ?」

「そうかもね。」

蝉が鳴いていた。7年の地中生活を終え、地上に出た最後の夏。僕の7年間と同じだ。

「私に何ができるか、それを考えたの。私にできること……私にだってできることは有るはず。

それは、一体、誰のせいであなたが車椅子に乗っているのかを、調べること。

少なくとも、あなたのお母さんのせいでは無いことを証明したかったの。お母さんはお元気?」

「7年前に、癌で死んだ。」

「そうだったの。」

「おふくろは、ずっと僕に謝っていたよ。私があの時、薬さえ飲まなければあんたの足は普通だったのに、ってね。」

「違うわ!!」

彼女は、麦茶の入ったコップを落として立ち上がり、僕を見下ろした。

 

(上へつづく)

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