(9)
目をあける。
「何時の飛行機?」
「8時。」
「最初はロンドン?」
「そう。半年はロンドンで勉強。次にイタリア。」
「ふ〜ん。」
目を閉じる。
目を開ける。
「向こうから戻ってきたら?」
「う〜ん、まだあまり考えていないの。」
「他の製薬会社は?」
「無理だと思う。きっと、ブラックリストに載っていると思うの。」
「そうだろうね。」
「福祉関係の仕事で、海外と協力するNPOあたりかな。でも、向こうに行って、またいろいろ勉強してたら他のことも見つかるかも。」
「うん。 ……きみは、僕を地上に出してくれた。」
「え?」
「ありがとう。」
「……」
ただ黙って微笑む。
目を閉じる。
日記。
“ 海に行ってきた。久々に潮風に触れたね。江ノ島は初めてだったけれど、良かったな。海は生命の母だってね。
そのうち、スキューバーダイビングにも挑戦しょう!
僕はオリンピックの選手でもなんでもない。せいぜい、市民ロードランナーだ。
だから、頑張る必要もないしね、気楽にやればいいんだ。
ところで、海岸を管理している地方自治体の皆さ〜ん、トイレには障害者用の補助バーをお忘れなくね、頼むよ、ホントにさ。
デートならいいけれど、一人で来たら大変だからさ。(デートでも彼女が手伝ってくれないとだめだけどね。)
みんなはさ、海や湘南と言えば、サザンだと思っていない?
エンヤも合うだんな、これが。
ただし、ラジカセが砂に埋もれないように注意しよう。でないと、あとでスピーカーからジャリジャリと砂が落ちてくる。
鼻の頭が日焼けで皮がむけちゃったよ。う〜ん、7年振りだ。
7年前、おふくろが、癌で死んだ翌月に僕は恋人と海に行った。あの日も暑かった。それがいけなかった。
コーラを飲みすぎてさ、膀胱が破裂しそうだった。そこでトイレに行くと、やっぱり補助バーが無い!!
彼女を呼んで、うしろから支えて欲しいと頼んだけれどね、駄目だったね。
彼女が泣き出しちゃった。泣きたいのは、僕の膀胱さ。
もう一度頼むよ、地方自治体の皆さん。補助バーが無かったために、一組の恋人達が別れることもあるんだからさ。
今夜は顔がヒリヒリ痛むので、寝付かれないかな。おやすみ……。”
彼女からのメール。
「スキューバーダイビングのライセンスを取ってみようかな。 かしこ」
いつも新しい戦いを見つける彼女。
彼女は、スポーツセンターのマネージャーを、良くこなした。
僕と他のメンバーとの潤滑油の役回りもしてくれた。僕にも友人が増えてきた。
コーチともすぐに馴染んだ。
「彼女、忍耐強いね」
コーチは、僕に言った。
「普通だったら、この手の肉体労働や、油まみれになる車椅子の整備なんて嫌がるけれどね。」
「自分で言い出したことだからでしょ。頑固みたいだから。」
「軽井沢にも来るんだって?」
「そうみたいね。」
「どこで、知り合ったの?」
「くもの巣にひっかかっていた。」
「え?」
「冗談。本当はこのスポーツセンターの前。日傘をくるくる回していたんだ。」
「明るくなったね、あなた。」
「コーチのおかげ。」
「アイス好きのコーチのほうのね。」
日記。
“いよいよ、明日、軽井沢のレースに向かって出発だ。
昨日までの大雨で、道路が滑りやすくなっているとヤバイな。
健闘を祈ってくれよ、みんな。
このレースが済んだら、いよいよ、念願のサロマ湖だ。
今年こそ、去年の雪辱を果たしてやるぞー。“
軽井沢まで、彼女の運転する車で行くことになった。
「コーチとも話したんだけれど……」
「うん。」
「今度のレースでは、私はゴールの2Km前に居るね。
白樺の林から、最終直線コースに入る坂のところ。
そこが、一番危ないところだからってコーチが教えてくれたの。」
「去年も、そこで3人に抜かされた。」
「今年はどう?」
「多分、大丈夫だと思うよ。体重移動のコツが分かった。下り坂から、大きく右に曲がるところなんだ。」
「あなたの弱点ね。下り坂。」
「そう。昔、小学生の頃、近所の中学生に下り坂を押されたことがあるんだ。右から来た大型トラックが僕の鼻先をかすめていった。
それ以来、下り坂になると、運送屋の車が右から暴走してくるのが見えるようになってしまったのさ。
どうしても、恐怖が蘇る。」
「大丈夫。私の写真を車椅子の後ろに貼っておいてあげたからね。
左の手首はつっぱらなくなった?」
「それは、だめだね。」
「そう……。前半は、とばさないで、抑えて行ってね。平坦なコースが続くから、そこで飛ばすと、後半に響くわ。」
彼女はマネージャーとなってから、自分でも走り始めた。
市営グランドのトラック練習では、みんなと一緒に走った。
僕らの練習以上に、コーチも彼女に指導してくれた。そのお陰で、彼女は6kgも痩せることが出来たと大喜びしていた。
「ね、私の体重はまだ、キープできているのよ。こんなことなら、夏に入る前からマネージャーになるんだった。今までで一番成功したダイエットだわ。でも、本当にあのコーチって素敵よね。」
「きみのほうが、ずっと素敵さ。」
「え? もう一度、言って。」
「笑顔が、いい。」
「笑顔だけ?」
「熱いな・・・」
笑いながら彼女がエアコンを強くしてくれた。
レース当日は朝のうち霧がかかっていたが、スタートする頃には、日が差してきた。
このレースは、サロマ湖レースの準備としては、距離も日程としてもベストな大会のため、全国から強豪が集まる。
ここで、最後の調整をして、サロマ湖に臨むのだった。
僕はレース前のこの緊張が好きだ。この瞬間に彼女と一緒にいることが嬉しい。
「じゃ、頑張ってね。」
「うん。」
「白樺林の先で待っているから。」
「OK」
レースは順調だった。
彼女が調合してくれたドリンク剤を5Kmおきに飲んだ。
汗が心地よい。去年も走った道だ。ペース配分も問題なかった。
前半を終わって上位1割のところにいた。何人かの仲間もすぐ後ろからせまってくる。
選手たちの息遣いが聞こえる。
レース中はずっと、彼女とメールの交換を始めてからの時間を思い出していた。
こんなに楽しいレースは初めてだった。
彼女の姿を思い出し、彼女の姿を見ることだけを思い描きながら、アスファルトを行く。
コーチとの作戦どおり、白樺林に入る残り10Kmからスパートをかけた。
木漏れ日の中を僕は車椅子を転がす。
彼女から初めてのメールを貰ってから2ヶ月。
この夏は、海にもプールにも何回か行った。全て彼女がサポートしてくれた。
彼女は僕の心のマネージャーでもあった。パートナーとして最愛の人だった。
スイミングスクールに彼女が通い始めた。僕もスポーツセンターで泳ぎを習い始めた。
あのデータの件は、その後、二人の間では話題にのぼらない。僕にとっては、もうどうでもよいことだ。
この林を抜けると彼女が待っていてくれる。
ラスト3Kmの標識。
ここで、最後のスパート。ここから、下り坂を一気に下る。
彼女の姿が見えてきた。みんな、ここで勝負だ。
スピードを捕らえ、体重を右にかける。腰をスライドさせ、そして右に曲がり……。
突然、空が回転した。
激しい、痛みが肘と肩を走った。
長い坂が今朝の霧で濡れていたことを思い出した。
僕は、恐怖を乗り越えていたはず。彼女の姿を捉えていたはず。
スリップだ。僕の心は恐怖で萎縮なんかしなかったはずだ。
僕の体が道路の上を三回転して止まった。
頭の脇を急ブレーキをかけながら、車椅子が走り抜けていった。
気がつくと車椅子から5mばかり投げ出されていた。
僕は体の調子を調べた。右手は問題ない。左手の肘を道路のアスファルトで切っていた。
肩から先が痺れて、左手は満足に動かない。
口の中で錆びた鉄の臭いがする。
「大丈夫?!」
彼女がコース脇から声をかけてくれる。
頭はヘルメットで保護されていたが、ショックで霞がかかったようだ。
僕は、車椅子のところまで這っていった。選手の車椅子が猛スピードで僕を避けて走りぬけていく。
何人かの仲間が心配そうに声をかけてくれた。
「大丈夫か?」
「なんとか。でも、左手が動きそうにない。」
「棄権か?」
「もうちょっと様子を見るよ。 先に行って、コーチに言っておいて。」
「OK。無理するなよ。」
歯をくいしばり、アスファルトの上を右手で少しずつ這っていく。
いつもこれさ。かっこいいことなんか、一つも無い。
体をひきずりながら、車椅子に近づく。彼女の顔が視界の隅に映る。
車椅子を立て直し、体を寄り掛けた。左手の肘から下が生ぬるい血で覆われていた。
口からつばを吐き出す。血にまじって白いものが飛んでいった。
舌でさぐると前歯が無くなっていた。
徐々に顔の左側が痛んできた。
僕の心は恐怖に勝っていたはず。完全に車椅子をコントロールしていたはず。
でも、今は心が萎えていた。……戦意喪失。
「立ちなさーい!! 何をやっているの! 立つのよー!」
彼女がすぐ脇までやってきて叫んでいた。
コーチやスタッフが選手に手を貸すと、その時点で失格だ。
「なんのために、ここまで頑張ってきたの?! 立ってー!! 頑張りなさいよ!!」
彼女は鬼のマネージャーだ。
僕は、右手だけで体を支え、車椅子に座った。
息を整える。右手で、車椅子を走らせる。
下り坂を惰性で、ゴールに向かった。
ゴールにたどり着く。
車椅子を左に寄せる。コーチがやってきた。
「ちょっと左手をみせて。う〜ん、ちょっとやばいかも。吐き気は?」
「少し。」
「病院に行ったほうがいいね。」
コーチが救急車のほうに僕を押していこうとした。
スタッフの中を掻き分けて、彼女が僕のところに飛び込んできた。
僕の顔を見ると、泣きながら僕の頭を抱きしめた。
「大丈夫?」
「まぁね。」
彼女のポロシャツが僕の血で真っ赤に染まっていった。
(10)
結局、僕は左腕の骨にひびが入り、サロマ湖のレースを断念した。
目標がまた、来年に伸ばされた。
日記。
“みんな、元気?
ついにやっちゃったよ。左手を負傷してしまった。
サロマ湖はまた、来年の兆戦ということになった。
でも、僕は恐怖を克服したんだ!
今まで、下り坂を車椅子で降りる時に、トラックが突っ込んでくる幻覚が有ったんだ。
笑うなよ、本当だ。だから、いつも、下り坂ではスピードを出せなかった。
今回は違う。恐怖は克服した。
ただ、道路状況の判断が甘かったのさ。ちょっと濡れていたんだ。”
しばらく、僕はスポーツセンターを休んだ。
彼女は時々、僕をお見舞いに来てくれた。
いつもと同じ、明るい表情だ。
だから、彼女からの最後のメールが届いた時は驚いた。
10月のサロマ湖レースの日。
彼女からの最後のメールが届いた。
「私、会社を辞めることにしたの。
イギリスへ、語学とスポーツ心理、社会福祉の勉強に行くの。
突然で、ゴメンなさい。
“マイサリ”のデータをWeb上に公開しました。URLはここです。
http://www.******.***
このことは誰にも、何も言ってないから、インターネットの渦巻く波の下に埋もれるかもしれません。
これが正しい選択だとは思えない。
こんなデータを公開したところで、なんにもならないことは知っています。
でも、軽井沢のレースで、あなたが転倒した時に気がついた。
全国の“マイサリ”の犠牲になった人たちにも、みんなの体は、お母さんのせいじゃないことを伝えるべきだってことを。
みんな、なにも失っていないってことも。
誰も手伝ってくれない、自分一人で起き上がるしかない人たち。
もちろん、あなたの傍らに私がいるように、全国の障害者の人たちにも誰かがついていると思います。
きっと、そんな人たちの支えが、難病の人たちや障害者の人たちの心の支えになっているに違いありません。
でも、最後に立ち上がることを決めるのは本人です、あなたのように。
過酷なレースだけど、新しい戦いは、いつだってまずは自分一人で向かわなければならない……。
そして始まったレースは一人きりじゃないわ。二人でこれからもね。
私は、あなたのそばにいるために、もう少し勉強することにしたの。
イギリスには1年位、行く予定です。半年はイタリアにも行くかも。
出発は来週の月曜日。出発の前に会えるかしら?」
目を開ける。
「あなたのことを大事にしたい。」
「僕も、きみのことを大切にしたい。あの時、立ち上がれたのは、きみのお陰だ。」
「あと、1年だけど待てる?」
「もちろん。今まで36年も待ったんだ。あと1年位、なんでもないよ。……綺麗だよ。きみが好きだ。」
「ありがとう。私もあなたの笑顔がとても好き。サロマ湖には、二人で兆戦できるかも。じゃ、行ってくるわ。」
「うん。」
彼女は荷物を持ち、僕のところにやってきた。
そして腰をかがめて、僕にキスをした。
「元気で。チャオ!」
「元気で。」
「向こうから、またメールを出すね。」
「うん。」
日記。
“みんな、元気かい?
寒くなってきたね。
イギリスはもっと寒いらしい。ロンドンでは、観測史上最も早い初雪が降ったようだ。
インターネットは凄いよ。東京とロンドンの距離なんて関係ないさ。
今日も、海外の友人からメールが来た。
僕の最高の友人だ。コーチより100倍は素敵だ。
さて、今日のBGMはいつものとおりエンヤだ……。”
See you!
(終了)