2010年09月23日

携帯メール(2)

     (2)


秋の気配が、知らないうちに忍び込んできた街。
今日の仕事も終り、駅へ向かう道を私は急ぎ足で歩きながら時計を見た。
あと2分で次の電車が出る。
私は足を速めた。

夕暮れの買い物客が多い道を、私は駅へ向かう。
一番星が、そろそろ出るころかしら。
仕事……。
私にとっての仕事。生活の糧を得るため?外との関わり?
まぁ、いいわ。とにかく、今日の仕事もきっちりとクリアした。
偏頭痛さえ来なければ、今日もそれなりの一日として私の中では終わる。


電車の発車ベルが鳴っている。
改札を走り抜け、電車に向かったけれど、目の前でドアは容赦無く閉まった。


フッと思わず出るため息。
私は仕方無くプラットホームをブラブラと歩く。
夕闇が街を包み込んで行く。
一軒、一軒の家から出ている光。
あの光一つに、一つの家族が有る。 光一つ一つに、それぞれの人間の幸福と不幸が含まれていることを私は知っている。
でも、この前までは、それは歓びと哀しみを感じさせない無機質な光として、私の目には映っていた。


携帯が振動した。

『業務終了!今日は一日「会議は踊る」だったよ。狸と狐の運動会(笑)。僕はこれからジムへ。君は? 』

私の体から疲れが消える。

『私も終り。電車を逃しちゃった。本でも読んで次の電車を待つわ。』


私と同じあの人。
私と違うあの人。
「風の歌を聴け」をいつも持ち歩くあの人。

ベンチに座り、ブルーを読む。


……なかなか、本が進まない。
ある病院の総合受付の椅子で居眠りをしていた人。
つい小説のストーリーを自分のことに読替えてしまう癖がついてしまった。
主人公の男女を自分たちに置き換える。

初めて会った日から、まだ数えるほどしかあの人とは逢っていない。
病院の待合室で初めて出会うのも、おかしな出会いだ。
二度目に逢った日の夜に、人通りの中でいきなりキスをしてきたあの人。
それに反応した私。
携帯メールは私たち二人を結ぶ、細い糸。
何色の糸かは、知らない。でも、今は唯一の糸がそれ。

駅のプラットフォームで電車を待ちながら、携帯電話の電波が飛び交っている夜空を見上げた。
一体、何本の糸が走っているのかしら。
澄んだ夜空で月が輝き、星が瞬く。 もう秋が来ていることを夜空は告げている。
私は本を閉じると、やってきた電車に乗った。
あの人のいない家へ帰らなくてはいけない。


携帯メールが届く。

『きみの読んでいる本は何?僕は科学の終焉を告げる本。既に科学は終焉を迎えているんだって。』

親指で返事を書く。

『私はブルーよ。もう読んだ?』
送信。

すぐに届く返事。
『今度、読むつもりだ。面白い?』

『読んでみて。今度逢った時に感想を。』
『了解。』


夜を走る電車は否応無く、私とあの人の距離をさらに遠のかせる。


(上へつづく)


posted by ホーライ at 21:43| Comment(0) | 携帯メール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

携帯メール(1)

      (1)

晩秋の東京では落ち葉がゴミと認識される。
僕はそのゴミの上を歩いていた。 道路に降り積もった公孫樹の葉の上を。
今夜は流星を沢山見ることができると街を行く人たちが話している。
空を見上げてみたが、街の明りでシリウスさえやっと見える程度だ。
都会には夜空が必要無いとでも言うように、ビルの窓から、飲み屋の看板から、クリスマスのイルミネーションから光が夜空へ放たれていた。

胸ポケットで携帯が3回震えて止まった。

『調子はどう?検査の結果は?』

短い文章は彼女が自由にメールを打てる時間を見つけ、必要最低限のことだけを伝えてくれるからだ。
遠い街から流星が降る夜空を飛んで、東京の片隅まで届く彼女からの言葉が僕の生命を支えていた。

『検査の結果は胃がんの初期。来月切除予定』

僕も簡単に携帯のボタンを押して返信する。
人間の命について、ポケットに入る機械のボタンで伝えられる時代に僕は生きていた。



吐血してから2週間。
僕の胃に悪魔が住みついていた。

胃カメラを覗いていた医師が僕に言った。
「あなたはラッキーだ。幸運だった。」
喉からファイバーを突っ込まれている僕は、目に涙を浮かべ、さっきからこみ上げてくる吐き気と戦うのが精一杯だった。
何故、幸運なのか、それは正式に検査の結果が出た今日、知らされた。

「出血の原因は胃潰瘍でしたが、胃がんも見つかりました。」
「……。」
「製薬会社にお勤めですね? しかも抗癌剤を出している。うちの病院でも使ってますよ。」
「……。」 ほんの数分前と違う、別次元の世界に飛び込んだような錯覚を憶える。
「MRですか?」
それは僕に向けられた質問のようだった。ほかに誰もいない。
「臨床開発を……」 他人が答えているような声が、診察室を反響して耳に届く。
「だったら、話しは早い。」
医師は、カルテを僕に見せた。
「あとで写真も見せますが、ここに I 期の胃がんがあります。で、ここに胃潰瘍が別にあります。今回の吐血の原因は胃潰瘍でした。」
カルテに書かれた胃の絵に流れるような矢印が書いてあり、その矢印は胃底を指していた。
そして、矢印の出発点には「tumor」の文字。
間違い無く、癌だった。

「吐血が無かったら見つからないような、ごく初期の胃がんです。 簡単に切除して取れます。癌種はその癌組織をとってから調べます。」
仕事で理解していることが、自分の世界に入ってくると、それはまるで他人のようだ。
淡々と事務的に説明する医師。
「これが、あなたの胃です。」と医師は鮮明な写真を見せてくれた。
「ここが出血のあとです。これは胃潰瘍。そして、ここが見つかった胃がんです。」

明るい光が診察室の窓から指し込んできた。
その診察室内を事務的に働き回る看護婦。

清潔感漂う、その看護婦の白衣が太陽の光を跳ね返していた。





検査結果をメールで送って、街を彷徨っていた。
携帯電話が震えた。
今度は3回で止まらない。
画面には彼女の名前が出ていた。



「大丈夫?」
彼女の声は、いつでも僕の気持ちを暖かくさせる。
「きみこそ、今は電話大丈夫なの? 彼は?」
「今日は残業で遅いの。本当に胃がんなの?」
「うん。でも初期の胃がんだから。癌の種類にもよるけれど、取ってしまえば5年以上の生存率は90%以上さ。」
「……。」
携帯の向こうから、息を吸い込む音がする。
「来月、また口からファイバーを入れて、ちょこっと癌を取れば終りさ。」
「……。」
無音が夜の向こうから伝わってくる。

やがて、無言の携帯の向こうからは、彼女の嗚咽の音が聞こえてきた。

クールで、いつも冷静な彼女。
自分を出すことに敏感で、いつも斜に構えるふうを装っている彼女。
その彼女の涙の落ちる音が携帯の向こうから聞こえてくるようだ。
それは、僕の心も動揺させた。

「大丈夫さ。多分、転移もしてないだろうし。 I 期という初期だよ。幸運すぎる早期発見だ。」
彼女は声を殺しながら、涙を落としているようだ。
鼻をすする音が晩秋の冷たい空気を震わせて、僕の耳に届く。

僕は、自分の知識を総動員して、医師と話しをしたこと、その結果、癌組織さえ取り除けば問題無いことを彼女に伝えた。
彼女に説明しているうちに、それは自分のことではなく、治験に参加してもらった被験者さんのことのように思えてきた。
そのことで、僕自身は落着いてきたが、彼女には効果が無かった。

普段のメールのやりとりでは知りえない彼女の痛みが伝わってくる。
「食事は摂った? 彼の食事の準備も済んだ?」
できるだけ、現実の場に彼女を持っていこうとした。
その僕の試みは、逆効果だった。
彼女は、声を出して泣き始めた。

僕は街の小さな公園に入り、ベンチに座った。
こんな所に公園が有るなんて誰も知らない、置き忘られた公園のベンチで、枯れ葉を散らす公孫樹を見上げた。
そこには広い夜空が広がっていた。
枝の向こうにオリオンが光っている。
地球は何事も無かったように、いつもの速さで自転しているようだ。

「ごめん。もう大丈夫。」 鼻を大きくすする音がしてから、彼女はそう言った。
「びっくりしたよ。」
「びっくりしたのは、こっちよ。」
「まぁ、そう言うわけで大丈夫だからさ。心配しないで。」
「ごめんね。かえってあなたを心配させたようで。 もう二度と泣かないわ。」
「うん。」
いつもは強気の彼女は静かにため息をつくと、これから私が貴方のために神様にお祈りしてあげるから大丈夫よ、と言って携帯を切った。

僕はベンチで煙草に火をつけ、オリオン座に向けて煙を吐いた。
僕の命が煙草の煙と一緒に、公孫樹が伸びる夜空に向かって流れていった。
煙を見ながら、胃壁に出来た小さなポリープを思い出し、悪態をついた。
その悪態はビルの壁に跳ね返り、僕のところに戻ってきた。それは悪魔の声に変わっていた。



丁度、今から一年前の秋、僕はある病院に治験を依頼しており、婦人科にモニターとして1ヶ月に一度はその病院に通っていた。
医師とのアポは大抵が時間通りには行かない。
その日も、急遽、オペが入り、僕は1時間ほど待たさることになった。
婦人科の前で待つのは、なにかと落着かないので、僕は総合外来のソファーで本を読みながら時間を潰していた。


「落ちましたよ。」 気が着くと僕は居眠りをしていた。目を開けると栞を僕に渡す女性が立っている。
「ありがとうございます。」
彼女は僕に微笑みと栞を渡すと、隣のソファーに座り、本を広げた。
その本は、僕が今、読んでいる本だった。

「風の歌を聴け」

これまで何回、読み返したことだろう。
ページがぼろぼろになっては、買い替え、そしていつもポケットに入れて持ち歩いている本。
作者の生まれた街まで、行ったことがある。
大学卒業前に行っておきたくて、ただ同じ風景を見たくて、一度だけ行った
港の見える街。そして山。
僕の誕生日に大きな地震で崩壊しかかった街。
いつか、もう一度行きたい街。

彼女の読んでいる本も、カバーの角が切れかかっている。

「その本が好きなようですね。」
「えっ?」
「僕と同じだ」と言って、持っていた7代目の「風の歌を聴け」を見せた。
「そうですね。……私達、同じですね。」

笑顔が光の中に生まれた。

(上へつづく)


posted by ホーライ at 21:41| Comment(0) | 携帯メール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

e-mail(7)

    (9)

目をあける。

「何時の飛行機?」

「8時。」

「最初はロンドン?」

「そう。半年はロンドンで勉強。次にイタリア。」

「ふ〜ん。」

目を閉じる。

 

目を開ける。

「向こうから戻ってきたら?」

「う〜ん、まだあまり考えていないの。」

「他の製薬会社は?」

「無理だと思う。きっと、ブラックリストに載っていると思うの。」

「そうだろうね。」

「福祉関係の仕事で、海外と協力するNPOあたりかな。でも、向こうに行って、またいろいろ勉強してたら他のことも見つかるかも。」

「うん。 ……きみは、僕を地上に出してくれた。」

「え?」

「ありがとう。」

「……」

ただ黙って微笑む。

目を閉じる。

 

日記。

“ 海に行ってきた。久々に潮風に触れたね。江ノ島は初めてだったけれど、良かったな。海は生命の母だってね。

そのうち、スキューバーダイビングにも挑戦しょう!

僕はオリンピックの選手でもなんでもない。せいぜい、市民ロードランナーだ。

だから、頑張る必要もないしね、気楽にやればいいんだ。

ところで、海岸を管理している地方自治体の皆さ〜ん、トイレには障害者用の補助バーをお忘れなくね、頼むよ、ホントにさ。

デートならいいけれど、一人で来たら大変だからさ。(デートでも彼女が手伝ってくれないとだめだけどね。)

みんなはさ、海や湘南と言えば、サザンだと思っていない?

エンヤも合うだんな、これが。

ただし、ラジカセが砂に埋もれないように注意しよう。でないと、あとでスピーカーからジャリジャリと砂が落ちてくる。

鼻の頭が日焼けで皮がむけちゃったよ。う〜ん、7年振りだ。

7年前、おふくろが、癌で死んだ翌月に僕は恋人と海に行った。あの日も暑かった。それがいけなかった。

コーラを飲みすぎてさ、膀胱が破裂しそうだった。そこでトイレに行くと、やっぱり補助バーが無い!!

彼女を呼んで、うしろから支えて欲しいと頼んだけれどね、駄目だったね。

彼女が泣き出しちゃった。泣きたいのは、僕の膀胱さ。

もう一度頼むよ、地方自治体の皆さん。補助バーが無かったために、一組の恋人達が別れることもあるんだからさ。

今夜は顔がヒリヒリ痛むので、寝付かれないかな。おやすみ……。”

 

彼女からのメール。

「スキューバーダイビングのライセンスを取ってみようかな。   かしこ」

いつも新しい戦いを見つける彼女。



彼女は、スポーツセンターのマネージャーを、良くこなした。

僕と他のメンバーとの潤滑油の役回りもしてくれた。僕にも友人が増えてきた。

コーチともすぐに馴染んだ。

「彼女、忍耐強いね」

コーチは、僕に言った。

「普通だったら、この手の肉体労働や、油まみれになる車椅子の整備なんて嫌がるけれどね。」

「自分で言い出したことだからでしょ。頑固みたいだから。」

「軽井沢にも来るんだって?」

「そうみたいね。」

「どこで、知り合ったの?」

「くもの巣にひっかかっていた。」

「え?」

「冗談。本当はこのスポーツセンターの前。日傘をくるくる回していたんだ。」

「明るくなったね、あなた。」

「コーチのおかげ。」

「アイス好きのコーチのほうのね。」



日記。

“いよいよ、明日、軽井沢のレースに向かって出発だ。

昨日までの大雨で、道路が滑りやすくなっているとヤバイな。

健闘を祈ってくれよ、みんな。

このレースが済んだら、いよいよ、念願のサロマ湖だ。

今年こそ、去年の雪辱を果たしてやるぞー。“



軽井沢まで、彼女の運転する車で行くことになった。

「コーチとも話したんだけれど……」

「うん。」

「今度のレースでは、私はゴールの2Km前に居るね。

白樺の林から、最終直線コースに入る坂のところ。

そこが、一番危ないところだからってコーチが教えてくれたの。」

「去年も、そこで3人に抜かされた。」

「今年はどう?」

「多分、大丈夫だと思うよ。体重移動のコツが分かった。下り坂から、大きく右に曲がるところなんだ。」

「あなたの弱点ね。下り坂。」

「そう。昔、小学生の頃、近所の中学生に下り坂を押されたことがあるんだ。右から来た大型トラックが僕の鼻先をかすめていった。

それ以来、下り坂になると、運送屋の車が右から暴走してくるのが見えるようになってしまったのさ。

どうしても、恐怖が蘇る。」

「大丈夫。私の写真を車椅子の後ろに貼っておいてあげたからね。

左の手首はつっぱらなくなった?」

「それは、だめだね。」

「そう……。前半は、とばさないで、抑えて行ってね。平坦なコースが続くから、そこで飛ばすと、後半に響くわ。」

彼女はマネージャーとなってから、自分でも走り始めた。

市営グランドのトラック練習では、みんなと一緒に走った。

僕らの練習以上に、コーチも彼女に指導してくれた。そのお陰で、彼女は6kgも痩せることが出来たと大喜びしていた。

「ね、私の体重はまだ、キープできているのよ。こんなことなら、夏に入る前からマネージャーになるんだった。今までで一番成功したダイエットだわ。でも、本当にあのコーチって素敵よね。」

「きみのほうが、ずっと素敵さ。」

「え? もう一度、言って。」

「笑顔が、いい。」

「笑顔だけ?」

「熱いな・・・」

笑いながら彼女がエアコンを強くしてくれた。



レース当日は朝のうち霧がかかっていたが、スタートする頃には、日が差してきた。

このレースは、サロマ湖レースの準備としては、距離も日程としてもベストな大会のため、全国から強豪が集まる。

ここで、最後の調整をして、サロマ湖に臨むのだった。

僕はレース前のこの緊張が好きだ。この瞬間に彼女と一緒にいることが嬉しい。



「じゃ、頑張ってね。」

「うん。」

「白樺林の先で待っているから。」

「OK」



レースは順調だった。

彼女が調合してくれたドリンク剤を5Kmおきに飲んだ。

汗が心地よい。去年も走った道だ。ペース配分も問題なかった。

前半を終わって上位1割のところにいた。何人かの仲間もすぐ後ろからせまってくる。

選手たちの息遣いが聞こえる。

レース中はずっと、彼女とメールの交換を始めてからの時間を思い出していた。

こんなに楽しいレースは初めてだった。

彼女の姿を思い出し、彼女の姿を見ることだけを思い描きながら、アスファルトを行く。

コーチとの作戦どおり、白樺林に入る残り10Kmからスパートをかけた。

木漏れ日の中を僕は車椅子を転がす。



彼女から初めてのメールを貰ってから2ヶ月。

この夏は、海にもプールにも何回か行った。全て彼女がサポートしてくれた。

彼女は僕の心のマネージャーでもあった。パートナーとして最愛の人だった。

スイミングスクールに彼女が通い始めた。僕もスポーツセンターで泳ぎを習い始めた。

あのデータの件は、その後、二人の間では話題にのぼらない。僕にとっては、もうどうでもよいことだ。



この林を抜けると彼女が待っていてくれる。

ラスト3Kmの標識。

ここで、最後のスパート。ここから、下り坂を一気に下る。

彼女の姿が見えてきた。みんな、ここで勝負だ。

スピードを捕らえ、体重を右にかける。腰をスライドさせ、そして右に曲がり……。



突然、空が回転した。

激しい、痛みが肘と肩を走った。

長い坂が今朝の霧で濡れていたことを思い出した。

僕は、恐怖を乗り越えていたはず。彼女の姿を捉えていたはず。

スリップだ。僕の心は恐怖で萎縮なんかしなかったはずだ。

僕の体が道路の上を三回転して止まった。

頭の脇を急ブレーキをかけながら、車椅子が走り抜けていった。

気がつくと車椅子から5mばかり投げ出されていた。



僕は体の調子を調べた。右手は問題ない。左手の肘を道路のアスファルトで切っていた。

肩から先が痺れて、左手は満足に動かない。

口の中で錆びた鉄の臭いがする。

「大丈夫?!」

彼女がコース脇から声をかけてくれる。

頭はヘルメットで保護されていたが、ショックで霞がかかったようだ。

僕は、車椅子のところまで這っていった。選手の車椅子が猛スピードで僕を避けて走りぬけていく。

何人かの仲間が心配そうに声をかけてくれた。

「大丈夫か?」

「なんとか。でも、左手が動きそうにない。」

「棄権か?」

「もうちょっと様子を見るよ。 先に行って、コーチに言っておいて。」

「OK。無理するなよ。」



歯をくいしばり、アスファルトの上を右手で少しずつ這っていく。

いつもこれさ。かっこいいことなんか、一つも無い。

体をひきずりながら、車椅子に近づく。彼女の顔が視界の隅に映る。

車椅子を立て直し、体を寄り掛けた。左手の肘から下が生ぬるい血で覆われていた。

口からつばを吐き出す。血にまじって白いものが飛んでいった。

舌でさぐると前歯が無くなっていた。

徐々に顔の左側が痛んできた。

僕の心は恐怖に勝っていたはず。完全に車椅子をコントロールしていたはず。

でも、今は心が萎えていた。……戦意喪失。

「立ちなさーい!! 何をやっているの! 立つのよー!」

彼女がすぐ脇までやってきて叫んでいた。

コーチやスタッフが選手に手を貸すと、その時点で失格だ。

「なんのために、ここまで頑張ってきたの?! 立ってー!! 頑張りなさいよ!!」

彼女は鬼のマネージャーだ。

僕は、右手だけで体を支え、車椅子に座った。

息を整える。右手で、車椅子を走らせる。

下り坂を惰性で、ゴールに向かった。

ゴールにたどり着く。

車椅子を左に寄せる。コーチがやってきた。

「ちょっと左手をみせて。う〜ん、ちょっとやばいかも。吐き気は?」

「少し。」

「病院に行ったほうがいいね。」

コーチが救急車のほうに僕を押していこうとした。

スタッフの中を掻き分けて、彼女が僕のところに飛び込んできた。

僕の顔を見ると、泣きながら僕の頭を抱きしめた。

「大丈夫?」

「まぁね。」

彼女のポロシャツが僕の血で真っ赤に染まっていった。



(10)

 

結局、僕は左腕の骨にひびが入り、サロマ湖のレースを断念した。

目標がまた、来年に伸ばされた。



日記。

“みんな、元気?

ついにやっちゃったよ。左手を負傷してしまった。

サロマ湖はまた、来年の兆戦ということになった。

でも、僕は恐怖を克服したんだ!

今まで、下り坂を車椅子で降りる時に、トラックが突っ込んでくる幻覚が有ったんだ。

笑うなよ、本当だ。だから、いつも、下り坂ではスピードを出せなかった。

今回は違う。恐怖は克服した。

ただ、道路状況の判断が甘かったのさ。ちょっと濡れていたんだ。”



しばらく、僕はスポーツセンターを休んだ。

彼女は時々、僕をお見舞いに来てくれた。

いつもと同じ、明るい表情だ。

だから、彼女からの最後のメールが届いた時は驚いた。



10月のサロマ湖レースの日。

彼女からの最後のメールが届いた。



「私、会社を辞めることにしたの。

イギリスへ、語学とスポーツ心理、社会福祉の勉強に行くの。

突然で、ゴメンなさい。

“マイサリ”のデータをWeb上に公開しました。URLはここです。

http://www.******.***

このことは誰にも、何も言ってないから、インターネットの渦巻く波の下に埋もれるかもしれません。

これが正しい選択だとは思えない。

こんなデータを公開したところで、なんにもならないことは知っています。

でも、軽井沢のレースで、あなたが転倒した時に気がついた。

全国の“マイサリ”の犠牲になった人たちにも、みんなの体は、お母さんのせいじゃないことを伝えるべきだってことを。

みんな、なにも失っていないってことも。

誰も手伝ってくれない、自分一人で起き上がるしかない人たち。

もちろん、あなたの傍らに私がいるように、全国の障害者の人たちにも誰かがついていると思います。

きっと、そんな人たちの支えが、難病の人たちや障害者の人たちの心の支えになっているに違いありません。

でも、最後に立ち上がることを決めるのは本人です、あなたのように。

過酷なレースだけど、新しい戦いは、いつだってまずは自分一人で向かわなければならない……。

そして始まったレースは一人きりじゃないわ。二人でこれからもね。

私は、あなたのそばにいるために、もう少し勉強することにしたの。

イギリスには1年位、行く予定です。半年はイタリアにも行くかも。

出発は来週の月曜日。出発の前に会えるかしら?」



目を開ける。

「あなたのことを大事にしたい。」

「僕も、きみのことを大切にしたい。あの時、立ち上がれたのは、きみのお陰だ。」

「あと、1年だけど待てる?」

「もちろん。今まで36年も待ったんだ。あと1年位、なんでもないよ。……綺麗だよ。きみが好きだ。」

「ありがとう。私もあなたの笑顔がとても好き。サロマ湖には、二人で兆戦できるかも。じゃ、行ってくるわ。」

「うん。」

彼女は荷物を持ち、僕のところにやってきた。

そして腰をかがめて、僕にキスをした。

「元気で。チャオ!」

「元気で。」

「向こうから、またメールを出すね。」

「うん。」



日記。

“みんな、元気かい?

寒くなってきたね。

イギリスはもっと寒いらしい。ロンドンでは、観測史上最も早い初雪が降ったようだ。

インターネットは凄いよ。東京とロンドンの距離なんて関係ないさ。

今日も、海外の友人からメールが来た。

僕の最高の友人だ。コーチより100倍は素敵だ。

さて、今日のBGMはいつものとおりエンヤだ……。”



See you!

                      (終了)       

posted by ホーライ at 21:36| Comment(0) | e-mail | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。