『オペ終了。フラフラだよ。フルマラソンを走った後のようだ。でも完走したよ。きみが待っているゴールに一番乗りさ。』
24時間ぶりに携帯メールを送信。
『お疲れ様!完走おめでとう!あなたのくったくのない笑顔が目に浮かぶわ。ゆっくり休んでね。』
僕の本当の笑顔を知っている数少ない人。
僕の救助信号を感知してくれる唯一の人。
遠く離れていても。
静かに自分を見つめることが出来た時間だった。
死と対峙した時に、人間は初めて自分のやりたいことを理解できる。
企業での利潤追求の仕事は50歳までに、切上げよう。
それまでには子供達も成人している。
あと10年弱を会社勤めしたら、それから先の人生はフリーで働くという夢。
漠然とした夢だったものが、形として捉えられるようになってきた。
ネット社会は、地域によるデバイドを消失させつつある。
どこで働いていても、ネットの中では自分が情報の中心になれる。
東京で働く必要が無くなれば、ジャズの流れる港町に住み、小さなオフィスで海を見ながら働こう。
利潤追求に囚われ、患者の利益より企業の利益を優先させる会社生活にピリオドを打つ。
ベッドの中で、吐き気に襲われながら、はかない夢を現実化させる方法を考えながら眠りについた。
一週間後、癌細胞の再検査の結果が分かった。
比較的、性質の良い癌だった。
「5年生存率は90%以上です。」
医師は微笑みながら言った。
……それは確率の問題だ。
ぼくが残り10%のほうにいたとしても、不思議ではない。
病院からの帰り道。北風の中を町を歩く。
胃の中まで、風が吹き抜けて行くようだ。
枯葉はもう姿を隠し、町はクリスマスのイルミネーション一色だった。
ジングルベルの歌を聞きながら僕は携帯で彼女にメールを送る。
『僕の5年生存率は90%だって』
『あら、いいじゃない。私の5年後の生存率なんて分からないんだから。
ところで、素敵な海岸沿いのレストランを発見!あとでPCのメールで連絡するわ。』
はかない夢でも、現実化させないといけない。
僕に残された時間を考えると、決して夢を遠くに見てる余裕は無かった。
しかし、それはなにも病気になったからという訳でもない。
本当は、余裕が無いことを自覚したくなかったからかも知れない。
誰もが、自分の時間に区切りをつけて考えたりしないだろう。
明日が永遠にやってくると思い込んだふりをしているだけだ。
それこそ、はかない夢なのかもしれない。
北風の中を僕は地下鉄の駅に向かった。
(上へつづく)