あの人の病気のことを、一人で考えていると知らないうちに涙が出てくることがある。
私に出来ることは祈ることだけ。
あとは、携帯メールでいつものように他愛の無い話題をして、あの人が少しでも病気のことを考えないようにしてあげるだけ。
これは、人生のなかの一つの出来事でしかないと思うようにしてあげる。
朝、起きてトーストを焼くように。
夜、眠る前にハーブティを入れるように。
涙を拭き、明るい心に切り替える。
私の心があの人の心に反応してはいけない。
海岸通りの、海が一望できるレストランを雑誌で探す。
二人で、小さな島に行くのもいい。
それも、全ては明日の手術の結果しだいなのか、どうか。
私には詳しいことは分からない。
雑踏の中を歩く。知らない人が私にぶつかる。
人ごみは嫌いだから、人の通らない裏道が好き。
あの人の行為が全て、私に伝わってくることはない。
多分、外来受付けまで出てきてメールを送ってくれる。
多分、入院ベッドの上で、明日の手術を考えている。
そして、海が見たいと答えてくれる。
私に出来ることは、祈るだけ。
裏通りのビルに挟まれた夜空を見上げ、月に祈る。
わずかで貴重な時間に、電車で駆けつけてくれるあの人の行動力が私をあの人に惹きつける。
私が困っていると、私の住む街までやってきてくれる。
いつも笑顔で迎え、笑顔で別れる。
遥かな「のぞみ」なのかもしれないけれど、私はあの人と共有できる時間を独占したくなることがある。
あの人に残された貴重な時間を。
首を振り、ため息をつくと街を歩く。
とにかく手術の結果がどうあれ海を見に行くことを決め、私は電車に乗る。
癌細胞があの人の体を蝕むようなことはさせない。
私には科学の知識も、医学の知識も、薬の知識も無い。
でも、あの人は抗癌剤の新薬を開発していたこともある。
その人が大丈夫だと言うなら、私はそれを信じていく。
「あの人には癌を再発させない。」
死を思うことが、生をよりかけがいのないものにさせる。
初冬の海へ。
襟を立てながら、山から吹き降ろす北風の中を二人で歩く風景を想像する。
ジャズの似合う街並みが好きだと、あの人は言った。
そして
『君と「風の歌を聴け」の風景の中を歩きたい』
とメールで送ってきた。
そこは私の生まれた街にも近い。
……気がつくと、私は恋に落ちていた。
(上へつづく)