2010年09月23日

携帯メール(10)

     (10)

海へ向かう船が見える。

緑と青でライトアップされたホテル。
その夜景の前に座っている彼女。

「ここのパスタ、おいしいわね。ピザも。」
「うん。少し風が寒いけれど。味は悪くない。」

ビル・エバンスのピアノが流れる空間と時間を二人で共有する。

「手術は何時から?」
「10時。」
「OK。その時間に私はあなたのほうへ向かって、祈りの言葉を送ってるわね。」
「ありがとう。」
「どれくらいかかるの?」
「オペ自体は1時間もあれば終わるよ。」
「人工声帯はすぐにつけるの?」
「それは、一年後くらいにね。まずは、癌細胞を叩くことに専念しないといけない。」
「そう。」

暗い照明の中で、彼女の瞳が僕を見据える。

「薬は?」
「飲むよ。」
「副作用はあるの?」
「うん、一般的な抗癌剤の副作用がね。毛髪が抜けたり、吐き気とか、下痢とかね。それは薬を使い始めてからでないと分からない。」
「でも、あなたは薬の専門家だから、いいわね。お医者さんに薬の指示を出したらいいんじゃない?」
「そうだね。僕は薬剤師だからね。」
「そうよ。薬に関してはお医者さんより詳しいんでしょ。」

話しながら、彼女の目から涙が流れ、港の光に反射して頬を伝わっていた。
口元に笑みを浮かべながら、彼女は僕を見つめる。

「携帯メールは打てるからいいわよね。」
「病室からは打てないけれど、散歩がてらに病院の外に出て送るよ。」
「どれくらい入院しているの?」
「多分、1ヶ月くらいかな。しばらくは点滴で、それから流動食だ。」
「じゃ、今日は沢山食べて。まだ他にも頼む?」
「地中海風リゾット。」

料理と音楽と夜景と彼女。
時間が一秒ごとに使われてゆく。


「抗生物質も使うの?」
「うん、オペのあとは必ず使うよ。感染病にならないようにね。」

いつもより、おしゃべりな彼女。



----- *** -----



料理が喉を通らない。
テーブルに来たリゾットを彼のお皿に取る。

今日だけは沈黙が怖かった。
彼が「最後の言葉」を言い出すのが怖いから。
私は話し続ける。
彼に質問し続ける。
それにいつものように答えるあの人。
時間が私の心の中で壊れてゆく。


食事が終り、レストランを出る。
海からの冷たい風が、私の涙を乾かしてゆく。

「今日は改札まで送らないわ。そこの公園のところで見送る。」


海の波間に映る街の明り。 海から戻ってくる船。

彼の逞しい腕が、私を覆い尽くす。
抱きしめる彼の体。
汽笛が夜空に響く。


唇を離すと、彼が語りかけてきた。
「今日までありがとう。」
うなずく。 涙が意志とは関係なく流れ出す。

「退院したら、また逢いに来るよ。」
「私のこと、忘れたら承知しないからね。」
「もちろんさ。また、来るよ。メールも送る。」
「指を骨折しないでね。」
「そうだね。……今日は楽しかったよ。じゃ、またね。」
「うん。」

彼が私の体を離し、目を見つめる。
「愛しているよ。いつまでも。」


彼は、そう言うと笑顔で駅へ向かった。

私は彼の言葉を抱きしめながら、見送る。
私は彼の言葉を繰り返し、頭に思い浮かべながら、ここで彼が迎えに来る日を待つ。
携帯電話を持って。



おわり


posted by ホーライ at 22:03| Comment(0) | 携帯メール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

携帯メール(9)

    (9)

部屋の時計を見る。
秒針が一秒ごとに時を刻む。

一秒ごとに、自分の声を失う時間が近づいてくる。
一秒ごとに、自分の死が近づいてくる。

夕闇が街の空を染めてきた。
鳥の鳴き声が遠く聴こえ、飛行機雲が空を斜めに切る。

僕の心と体を開放してくれた彼女に告げる最後の言葉を考える。


綾戸智絵が唄う「Let it be」がどこからか流れてきた。
乳がんだった彼女は「生命の力」に気づく。
フジコ・ヘミングも難聴になってから「演奏」が変わる。
ホーキングは言う「病気になって気づいたんだ。自分の時間の貴重さを。」


何も怯える必要は無い。
不完全燃焼するほうが耐え難い。

「なるようになる」

綾戸智絵がシャウトする。
彼女の声が、胸に染み渡るのを待つ。


部屋が夕闇に包まれると、僕は彼女に伝える言葉を考え始めた。
それは「肉声で伝える最後の言葉」でしかない。
僕にはまだ、メールを打つ指が有る。まばたきで意志を伝える人もいる。
言葉を考える脳が有る。

僕にはまだ、夕焼けを感じる視力が有る。
彼女の声を聴く聴力も有る。



声を失うことの哀しみが、夕日とともに沈んだ。


(上へつづく)
posted by ホーライ at 22:01| Comment(0) | 携帯メール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

携帯メール(8)

    (8)


部屋でアジアの写真集を見る。
いつしか、私は時間をつぶす術をいくつも抱きかかえていた。

携帯電話が鳴る。
あの人からのメールであることがメロディで分かる。
写真集から目を離すことが怖かった。
癌が再発したあの人から。

『今度の週末に会えるかな?』
いつも遠くから私のところまで、やってきてくれるメール。そしてあの人。
震える指でメールを打つ。
『いいわ。待っています。』 


再発の危険性をいつも抱えながらも、私をくったくのない笑顔で迎入れてくれる人。
まだ、どこに癌が再発したのか聞いていない。
あの人が教えてくれない。

癌は転移する。
どこに再発したのだろう。
胃? それとも別の場所?


私もネットで胃がんのことを調べた。
初期の発見なら5年生存率が高いこと。
でも、転移したら今度は手術だけでなく抗癌剤治療も必要になるだろうということ。


癌が転移していたら、転移が見つかった場所だけでなく、まだ見つからないほど小さな癌が体のどこかに潜んでいる可能性がある。
だから、手術で見つかった場所だけでなく、抗癌剤を使い、体中に潜む癌細胞を殺す必要があるらしい。


どこか、遠い国の話しと思っていたのに。



今の私にできることは、希望を失わないことだけ。
現実を見据え、それに立ち向かうだけ。

涙は見せない。

風が窓の外に見える樹木の枝を揺らしている。

私もいつか、この地上から消える。
あの樹木たちが、残っているだろう100年後。
私はいない。
遠くに見える山と雲。
500年後にも、あの山と雲は存在するだろう。今までそうだったように。

アジアの仏像。ヨーロッパの芸術。アフリカの古代文化。各地に伝わる民話、民謡。
千年単位で想いを走らせる。
これから生まれてくる子どもたちがいる。

「時間は遥かな未来まで繋がっているんだわ。」
言葉が口をついて出てくる。

私に残せるものが有る。

本を閉じ。
パソコンのスイッチを入れた。
そして、二人の記録を残すために、サイトを立ち上げるためにネットに繋いだ。


私は二人の出逢いを思い出し、文字を入力した。

白く光るディスプレイに向かって。

私とあの人が生きてきた証として、どんなに辛いことがあっても書き続ける。

『「僕と同じだ」と言って、あの人は「風の歌を聴け」を見せた。
「そうですね。……私達、同じですね。」
こうして、私たちは出あった。 病院の総合受付の前で……。』


(上へつづく)
posted by ホーライ at 21:57| Comment(0) | 携帯メール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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