2010年09月23日

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    (9)

目をあける。

「何時の飛行機?」

「8時。」

「最初はロンドン?」

「そう。半年はロンドンで勉強。次にイタリア。」

「ふ〜ん。」

目を閉じる。

 

目を開ける。

「向こうから戻ってきたら?」

「う〜ん、まだあまり考えていないの。」

「他の製薬会社は?」

「無理だと思う。きっと、ブラックリストに載っていると思うの。」

「そうだろうね。」

「福祉関係の仕事で、海外と協力するNPOあたりかな。でも、向こうに行って、またいろいろ勉強してたら他のことも見つかるかも。」

「うん。 ……きみは、僕を地上に出してくれた。」

「え?」

「ありがとう。」

「……」

ただ黙って微笑む。

目を閉じる。

 

日記。

“ 海に行ってきた。久々に潮風に触れたね。江ノ島は初めてだったけれど、良かったな。海は生命の母だってね。

そのうち、スキューバーダイビングにも挑戦しょう!

僕はオリンピックの選手でもなんでもない。せいぜい、市民ロードランナーだ。

だから、頑張る必要もないしね、気楽にやればいいんだ。

ところで、海岸を管理している地方自治体の皆さ〜ん、トイレには障害者用の補助バーをお忘れなくね、頼むよ、ホントにさ。

デートならいいけれど、一人で来たら大変だからさ。(デートでも彼女が手伝ってくれないとだめだけどね。)

みんなはさ、海や湘南と言えば、サザンだと思っていない?

エンヤも合うだんな、これが。

ただし、ラジカセが砂に埋もれないように注意しよう。でないと、あとでスピーカーからジャリジャリと砂が落ちてくる。

鼻の頭が日焼けで皮がむけちゃったよ。う〜ん、7年振りだ。

7年前、おふくろが、癌で死んだ翌月に僕は恋人と海に行った。あの日も暑かった。それがいけなかった。

コーラを飲みすぎてさ、膀胱が破裂しそうだった。そこでトイレに行くと、やっぱり補助バーが無い!!

彼女を呼んで、うしろから支えて欲しいと頼んだけれどね、駄目だったね。

彼女が泣き出しちゃった。泣きたいのは、僕の膀胱さ。

もう一度頼むよ、地方自治体の皆さん。補助バーが無かったために、一組の恋人達が別れることもあるんだからさ。

今夜は顔がヒリヒリ痛むので、寝付かれないかな。おやすみ……。”

 

彼女からのメール。

「スキューバーダイビングのライセンスを取ってみようかな。   かしこ」

いつも新しい戦いを見つける彼女。



彼女は、スポーツセンターのマネージャーを、良くこなした。

僕と他のメンバーとの潤滑油の役回りもしてくれた。僕にも友人が増えてきた。

コーチともすぐに馴染んだ。

「彼女、忍耐強いね」

コーチは、僕に言った。

「普通だったら、この手の肉体労働や、油まみれになる車椅子の整備なんて嫌がるけれどね。」

「自分で言い出したことだからでしょ。頑固みたいだから。」

「軽井沢にも来るんだって?」

「そうみたいね。」

「どこで、知り合ったの?」

「くもの巣にひっかかっていた。」

「え?」

「冗談。本当はこのスポーツセンターの前。日傘をくるくる回していたんだ。」

「明るくなったね、あなた。」

「コーチのおかげ。」

「アイス好きのコーチのほうのね。」



日記。

“いよいよ、明日、軽井沢のレースに向かって出発だ。

昨日までの大雨で、道路が滑りやすくなっているとヤバイな。

健闘を祈ってくれよ、みんな。

このレースが済んだら、いよいよ、念願のサロマ湖だ。

今年こそ、去年の雪辱を果たしてやるぞー。“



軽井沢まで、彼女の運転する車で行くことになった。

「コーチとも話したんだけれど……」

「うん。」

「今度のレースでは、私はゴールの2Km前に居るね。

白樺の林から、最終直線コースに入る坂のところ。

そこが、一番危ないところだからってコーチが教えてくれたの。」

「去年も、そこで3人に抜かされた。」

「今年はどう?」

「多分、大丈夫だと思うよ。体重移動のコツが分かった。下り坂から、大きく右に曲がるところなんだ。」

「あなたの弱点ね。下り坂。」

「そう。昔、小学生の頃、近所の中学生に下り坂を押されたことがあるんだ。右から来た大型トラックが僕の鼻先をかすめていった。

それ以来、下り坂になると、運送屋の車が右から暴走してくるのが見えるようになってしまったのさ。

どうしても、恐怖が蘇る。」

「大丈夫。私の写真を車椅子の後ろに貼っておいてあげたからね。

左の手首はつっぱらなくなった?」

「それは、だめだね。」

「そう……。前半は、とばさないで、抑えて行ってね。平坦なコースが続くから、そこで飛ばすと、後半に響くわ。」

彼女はマネージャーとなってから、自分でも走り始めた。

市営グランドのトラック練習では、みんなと一緒に走った。

僕らの練習以上に、コーチも彼女に指導してくれた。そのお陰で、彼女は6kgも痩せることが出来たと大喜びしていた。

「ね、私の体重はまだ、キープできているのよ。こんなことなら、夏に入る前からマネージャーになるんだった。今までで一番成功したダイエットだわ。でも、本当にあのコーチって素敵よね。」

「きみのほうが、ずっと素敵さ。」

「え? もう一度、言って。」

「笑顔が、いい。」

「笑顔だけ?」

「熱いな・・・」

笑いながら彼女がエアコンを強くしてくれた。



レース当日は朝のうち霧がかかっていたが、スタートする頃には、日が差してきた。

このレースは、サロマ湖レースの準備としては、距離も日程としてもベストな大会のため、全国から強豪が集まる。

ここで、最後の調整をして、サロマ湖に臨むのだった。

僕はレース前のこの緊張が好きだ。この瞬間に彼女と一緒にいることが嬉しい。



「じゃ、頑張ってね。」

「うん。」

「白樺林の先で待っているから。」

「OK」



レースは順調だった。

彼女が調合してくれたドリンク剤を5Kmおきに飲んだ。

汗が心地よい。去年も走った道だ。ペース配分も問題なかった。

前半を終わって上位1割のところにいた。何人かの仲間もすぐ後ろからせまってくる。

選手たちの息遣いが聞こえる。

レース中はずっと、彼女とメールの交換を始めてからの時間を思い出していた。

こんなに楽しいレースは初めてだった。

彼女の姿を思い出し、彼女の姿を見ることだけを思い描きながら、アスファルトを行く。

コーチとの作戦どおり、白樺林に入る残り10Kmからスパートをかけた。

木漏れ日の中を僕は車椅子を転がす。



彼女から初めてのメールを貰ってから2ヶ月。

この夏は、海にもプールにも何回か行った。全て彼女がサポートしてくれた。

彼女は僕の心のマネージャーでもあった。パートナーとして最愛の人だった。

スイミングスクールに彼女が通い始めた。僕もスポーツセンターで泳ぎを習い始めた。

あのデータの件は、その後、二人の間では話題にのぼらない。僕にとっては、もうどうでもよいことだ。



この林を抜けると彼女が待っていてくれる。

ラスト3Kmの標識。

ここで、最後のスパート。ここから、下り坂を一気に下る。

彼女の姿が見えてきた。みんな、ここで勝負だ。

スピードを捕らえ、体重を右にかける。腰をスライドさせ、そして右に曲がり……。



突然、空が回転した。

激しい、痛みが肘と肩を走った。

長い坂が今朝の霧で濡れていたことを思い出した。

僕は、恐怖を乗り越えていたはず。彼女の姿を捉えていたはず。

スリップだ。僕の心は恐怖で萎縮なんかしなかったはずだ。

僕の体が道路の上を三回転して止まった。

頭の脇を急ブレーキをかけながら、車椅子が走り抜けていった。

気がつくと車椅子から5mばかり投げ出されていた。



僕は体の調子を調べた。右手は問題ない。左手の肘を道路のアスファルトで切っていた。

肩から先が痺れて、左手は満足に動かない。

口の中で錆びた鉄の臭いがする。

「大丈夫?!」

彼女がコース脇から声をかけてくれる。

頭はヘルメットで保護されていたが、ショックで霞がかかったようだ。

僕は、車椅子のところまで這っていった。選手の車椅子が猛スピードで僕を避けて走りぬけていく。

何人かの仲間が心配そうに声をかけてくれた。

「大丈夫か?」

「なんとか。でも、左手が動きそうにない。」

「棄権か?」

「もうちょっと様子を見るよ。 先に行って、コーチに言っておいて。」

「OK。無理するなよ。」



歯をくいしばり、アスファルトの上を右手で少しずつ這っていく。

いつもこれさ。かっこいいことなんか、一つも無い。

体をひきずりながら、車椅子に近づく。彼女の顔が視界の隅に映る。

車椅子を立て直し、体を寄り掛けた。左手の肘から下が生ぬるい血で覆われていた。

口からつばを吐き出す。血にまじって白いものが飛んでいった。

舌でさぐると前歯が無くなっていた。

徐々に顔の左側が痛んできた。

僕の心は恐怖に勝っていたはず。完全に車椅子をコントロールしていたはず。

でも、今は心が萎えていた。……戦意喪失。

「立ちなさーい!! 何をやっているの! 立つのよー!」

彼女がすぐ脇までやってきて叫んでいた。

コーチやスタッフが選手に手を貸すと、その時点で失格だ。

「なんのために、ここまで頑張ってきたの?! 立ってー!! 頑張りなさいよ!!」

彼女は鬼のマネージャーだ。

僕は、右手だけで体を支え、車椅子に座った。

息を整える。右手で、車椅子を走らせる。

下り坂を惰性で、ゴールに向かった。

ゴールにたどり着く。

車椅子を左に寄せる。コーチがやってきた。

「ちょっと左手をみせて。う〜ん、ちょっとやばいかも。吐き気は?」

「少し。」

「病院に行ったほうがいいね。」

コーチが救急車のほうに僕を押していこうとした。

スタッフの中を掻き分けて、彼女が僕のところに飛び込んできた。

僕の顔を見ると、泣きながら僕の頭を抱きしめた。

「大丈夫?」

「まぁね。」

彼女のポロシャツが僕の血で真っ赤に染まっていった。



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結局、僕は左腕の骨にひびが入り、サロマ湖のレースを断念した。

目標がまた、来年に伸ばされた。



日記。

“みんな、元気?

ついにやっちゃったよ。左手を負傷してしまった。

サロマ湖はまた、来年の兆戦ということになった。

でも、僕は恐怖を克服したんだ!

今まで、下り坂を車椅子で降りる時に、トラックが突っ込んでくる幻覚が有ったんだ。

笑うなよ、本当だ。だから、いつも、下り坂ではスピードを出せなかった。

今回は違う。恐怖は克服した。

ただ、道路状況の判断が甘かったのさ。ちょっと濡れていたんだ。”



しばらく、僕はスポーツセンターを休んだ。

彼女は時々、僕をお見舞いに来てくれた。

いつもと同じ、明るい表情だ。

だから、彼女からの最後のメールが届いた時は驚いた。



10月のサロマ湖レースの日。

彼女からの最後のメールが届いた。



「私、会社を辞めることにしたの。

イギリスへ、語学とスポーツ心理、社会福祉の勉強に行くの。

突然で、ゴメンなさい。

“マイサリ”のデータをWeb上に公開しました。URLはここです。

http://www.******.***

このことは誰にも、何も言ってないから、インターネットの渦巻く波の下に埋もれるかもしれません。

これが正しい選択だとは思えない。

こんなデータを公開したところで、なんにもならないことは知っています。

でも、軽井沢のレースで、あなたが転倒した時に気がついた。

全国の“マイサリ”の犠牲になった人たちにも、みんなの体は、お母さんのせいじゃないことを伝えるべきだってことを。

みんな、なにも失っていないってことも。

誰も手伝ってくれない、自分一人で起き上がるしかない人たち。

もちろん、あなたの傍らに私がいるように、全国の障害者の人たちにも誰かがついていると思います。

きっと、そんな人たちの支えが、難病の人たちや障害者の人たちの心の支えになっているに違いありません。

でも、最後に立ち上がることを決めるのは本人です、あなたのように。

過酷なレースだけど、新しい戦いは、いつだってまずは自分一人で向かわなければならない……。

そして始まったレースは一人きりじゃないわ。二人でこれからもね。

私は、あなたのそばにいるために、もう少し勉強することにしたの。

イギリスには1年位、行く予定です。半年はイタリアにも行くかも。

出発は来週の月曜日。出発の前に会えるかしら?」



目を開ける。

「あなたのことを大事にしたい。」

「僕も、きみのことを大切にしたい。あの時、立ち上がれたのは、きみのお陰だ。」

「あと、1年だけど待てる?」

「もちろん。今まで36年も待ったんだ。あと1年位、なんでもないよ。……綺麗だよ。きみが好きだ。」

「ありがとう。私もあなたの笑顔がとても好き。サロマ湖には、二人で兆戦できるかも。じゃ、行ってくるわ。」

「うん。」

彼女は荷物を持ち、僕のところにやってきた。

そして腰をかがめて、僕にキスをした。

「元気で。チャオ!」

「元気で。」

「向こうから、またメールを出すね。」

「うん。」



日記。

“みんな、元気かい?

寒くなってきたね。

イギリスはもっと寒いらしい。ロンドンでは、観測史上最も早い初雪が降ったようだ。

インターネットは凄いよ。東京とロンドンの距離なんて関係ないさ。

今日も、海外の友人からメールが来た。

僕の最高の友人だ。コーチより100倍は素敵だ。

さて、今日のBGMはいつものとおりエンヤだ……。”



See you!

                      (終了)       

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     (7)

 

日記。

“ 今日も暑い一日だったね。蝉がうるさいくらいだ。 蟻は一生懸命働いていたよ。蟻とキリギリスか。

今日の練習は腹筋50回*3セット。背筋50回*3セット。腕立て伏せ50回*3セット。

その後で、ベンチプレスだ。腕がパンパンだよ。 コーチは鬼だ!

そうそう、僕の通っているスポーツセンターに新しいマネージャーが入りそうだ。

優しいマネージャーだといいけれどね。

ところで、みんなの夏休みの予定は?僕の夏休みはこんどの水曜日からだ。

予定としては、水曜日に海へ。木曜日は映画ビデオの一日。金曜日は……。”



彼女からのメール。

「デートの返事、ありがとう。水曜日の朝8時に、スポーツセンターの前に車で行きます。

この前はごめんなさい。

あなたのお母さんやお父さん、そしてあなたの気持ちなんて、私には理解できるはずもないのにね。     かしこ。」

 

僕からのメール。

「“マイサリ”のデータを見たよ。ハッキリ言って、良く分からなかった。

奇形児の生まれる確率だって、良く分からない。

きみが確率は高いというのだから、きっとそうなんだろうね。

このデータが得られた時に、どうして、この薬の販売を中止しれくれなかったのか残念に思う。

障害児が産まれる事がハッキリと分かっていたのなら、とても悔しい。でも、僕は、正直言ってこのデータについてはどうでもいい。

データを公開して、きみがクビになることも厭わないなら、それでもいい。このまま、闇に葬るなら、それはそれでいい。

僕は、製薬会社からの賠償金なんかで、車椅子を買いたくないしさ。

そんなことより、今は北海道のサロマ湖のレースで頭がいっぱいだしね。……海もね。

カサブランカは死んだおふくろも好きな映画だ。Here's to looking at you, kid.」

 

水曜日の朝、8時に彼女は言っていたとおりワンボックスカーでやって来た。

彼女は僕を抱き上げると助手席に乗せ、車椅子を折り畳み、後部座席にしまった。

「私の好きな江ノ島だけれど、いい?」

「Up to you!」

「OK! では、出発。」

エンヤの音楽を流しながら、車を走らせる。車のエアコンに直接あたるなんて、久しぶりのことだ。

まだ、夏休みに入っている人が少ないのか、道路は混雑もなく快適だった。

青いサマードレス。ヒマワリが咲いている涼しそうなサンダル。小麦色の腕がハンドルを楽しんでいる。

「好きな音楽は何ですか? 何をいつも聴きながら、あの日記を書いているんですか?」

「佐野元春、ボブ・ディラン、スタン・ゲッツ、ショパン。」

「ふーん、まるで、音楽のデパートですね。」

「きみは、何を聴きながら日記を読んでいるの?」

「山下達郎、ジョン・レノン、サザンオールスターズ、ラフマニノフ。」

「まるで、コンビニだ。」

「そうね、あははは。何か飲みますか? いつもの麦茶があります。」

「要らない。」

「遠慮なくどうぞ。最近、腕立て伏せをやっているんですよ。」

「マネージャーとして当然だね。」

「フフン!」

日差しが眩しい。喉も渇くさ、人間の生理だからね。

 

海岸は、結構な人出だった。

彼女は、車椅子をセットし、僕を乗せてくれた。

駐車場内は、車椅子でも移動できるが、砂浜は無理だった。

「ちょっと、待っていてください。先に荷物を置いてきます。」

ビーチサンダルに履き替えて、彼女は砂浜を走って行った。

屈託のない、明るい性格。顔に似合わず芯が強い。強い意志をもった健全な精神の持ち主だ。

「じゃ、行きましょう。」

僕を抱きあげ、砂浜を歩く。砂に足を取られながら、歯を食いしばりながら懸命にバランスをとって歩く。

ビニールシートに僕を静かに下ろす。ビーチパラソルの日影は僅かだ。今度は車椅子を取りに走っていく。

ラジカセからは、サザンオールスターズ。チャコの海岸物語。青い空と蒼い海。肌にまとわりつく潮風。

「はぁー、熱射病、ちょっと休憩。はーぁ。」

「マネージャー失格。」

「いいですよー。あのコーチに、私もしごいてもらうわ。」

彼女はビニールシートに倒れ込んだまま、息を整えていた。健康そうな背中が上下している。

ビーチボールに戯れる恋人達。浮き輪で遊ぶ子供。首をかしげて僕を見つめるカモメ。

「ビール飲んでいいですか?」

膝を抱えて、彼女が問い掛けてくる。

「遠慮無く。僕に麦茶を取ってくれる?」

「ハイ、どうぞ。じゃ、乾杯!」

「何に?」

「軽井沢ロードレースと、サロマ湖100Kmレースに!」

「乾杯。」

「Cheers!」

喉を鳴らして、ビールを飲む彼女。

「軽井沢は、9月10日でしょ? サロマ湖はいつなんですか?」

「多分、10月の最終日曜日。」

「そっちにも、マネージャーとして、参加しますね。」

「みんな喜ぶよ。それまでに、マネージャーとして一人前になってほしいもんだ。」

「もちろん! 海に入ります?」

本当に、僕の言うことを聞いていないんだ。

「無理。」

「でも、パラリンピックであなたと同じような人が、泳いでいる風景をテレビで見ましたよ。」

「お願いだから、無理を言わないでくれる? 僕とそういった特殊な人と一緒にしないで。」

「どうして? 本当にあの人たちは特殊なんですか?」

「……。」

「ふ〜ん。」

ビールを飲み、海の沖を眺める。何を考えているんだろう? 時折、悲しい目で遠くを見ることがあるのはクセ?

「僕は、別に泳ぎたくなんかないんだ。ただ、こうして海を眺めているだけでいい。」

「本当に?」

「本当に。」

「僕を苦しめないで欲しい。」

「……ごめんなさい。」

「気持ちはありがたいけれどね。時々、僕には負担に感じるんだ。なんでも僕に求めないで。僕はオリンピックの強化選手でもない、ただの障害者だからね。」

「でも、泳げたら素敵だと思って。一緒に水の中にも入ることができるでしょ。ただ、それだけです。私のわがまま。」

「きみも、泳げないんじゃなかったけ?」

「でも、そんなこと、練習するもん。昔の恋人とは一緒に入ったでんしょ……。」

「きみは、僕の昔の恋人じゃない。きみは今のままでいいんだ。比べる必要なんてない。比べることなんて意味が無い。」

膝に顔をうずめる彼女。

「そうですね。でも、少しでも役にたちたい。

少しでも早く、そう思っただけ……。」

暑い日差しが、彼女の首筋を焼く。

「ありがとう。」

「アイス買ってきます。」

ビーチサンダルを履き、砂浜を駆けていく。

止まったままのカセットテープをエンヤに替える。

“ Wild Child ”静かに、力強く、讃美歌のように、教会音楽のように流れるエンヤの声が心に染み込んでくる。

簡単に約束なんかしないで欲しい。簡単に慰めを言わないで欲しい。そう思ってずっと生きてきた。

でも、これは慰めだろうか?

約束? それとも希望?



(8)

 

「はい、アイス!」

「ありがとう。アイスが好きなんだね? 」

「えー。冬でも毎日食べているんですよ。」

「ふーん。」

「おいしいでしょ?」

「まだ、食べてない。」

「あ、そうか。早く食べてみてください。あははは。」

笑い上戸の彼女。人もつられて幸せになる笑い声と笑顔。

「アイス以外に、何が好き?」

「お漬物」

「え?」

「お漬物が好きなんですよ。変ですか?」

「いや、ちっとも。」

「あと、お風呂に入れる入浴剤にも凝っているんですよ。」

「へー」

「最近は、乳白色になるのが好き。十和田湖温泉巡りもいいかな。」

「あははは!」

「えー可笑しいかな〜?」

溶け始めたアイスに悪戦苦闘しながら、彼女も笑う。

エンヤの音楽が海岸に流れる。静かに、力強く。

彼女が微笑みながら、僕を見る。

「なに?」

「別に。」

どうして、そんなに優しい表情ができるの?

「なに?」

「なんにも。」

まとわりつく潮風。波音が大きくなる。男女の歓声があがる。

……。

「トイレに行きたいんだけれど」

「あ、はい。」

彼女は、車椅子を駐車場まで運ぶ。そして戻ってくると、こんどは僕を抱き上げ、砂浜を歩く。

ファンデーションとリンスと汗のにおい。柔らかい髪が僕の首筋にあたる。

僕を車椅子の乗せると後ろに回り、車椅子を押す。

「大丈夫。ここで、待っていて。」

男性トイレに入る。そして、また出ると彼女を呼んだ。

「だめだ。ここのトイレ、補助バーがない。」

「どうすればいいですか?」

「僕を後ろから支えて。」

「はい。」

……。

「どうもありがとう。」

「ううん、別に。まだ夕焼けには時間がありますね。」

「そんな時間までいるの?」

「夕日を見て、叫びましょうよ。」

「青春ドラマの見すぎ……。」


(上へつづく)

posted by ホーライ at 21:34| Comment(0) | e-mail | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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    (6)


「違うわ!!」

彼女は、麦茶の入ったコップを落として立ち上がり、僕を見下ろした。

「それは絶対に違う! あなたのお母さんのせいなんかじゃない!!

あなたのお母さんは、ただ眠れなくて、お医者さんから出された薬を信じて飲んだだけ!

誰だって、苦しい時には薬に頼るし、まさか、薬でこんなことになるなんて誰も思わないわよ!!」



彼女の目から涙が溢れていた。

白い日傘が僕の膝に飛んできた。紙コップを握り締めて僕を見下ろす彼女。蝉が鳴いている。僕の地中の7年間。

死んだおふくろを許せぬまま過ごした7年間。いつも誰かを怨むことで、自分を慰め、消耗しつづけた7年間。

「あなたにお母さんの気持ちなんて分かりっこないのよ!

どんなにお母さんが自分を責めて、苦しんだことか分からないの?

どんな母親だって、自分の子供を苦しめるために産むんじゃないのよ。

幸福な人生を夢みて、産まれてくる子供を待ち望んでいたはず……」

僕は、彼女から借りたタオルを差し出した。

彼女はタオルを受け取ると顔に押し当て、ベンチに座り、顔を埋めた。

日差しが、傾いてきた。僕は麦茶を飲んだ。

「おふくろが、どんな思いで薬を飲んだのか分かる。あの人はもともと不眠症気味だった。

僕を産んだ後はますます、その不眠症が進んだんだ。カウンセリングなんて言葉がなかった時代に、おふくろは苦しんでいた。

そして、僕に車椅子の動かし方を教え、僕をできるだけ、いろんなところに連れていってくれた。

おやじもね、苦しんでいたとは思う。

そのデータを貸してもらえるかな? ゆっくり見てみたい。」



タオルから顔を上げた彼女は、微笑むと赤い目を僕にむけた。

「汗くさい。あはは、汗くさいわ、このタオル。 いいですよ、データを持っていって。はい。」

数字だけの、とても理解できそうもないデータを受け取り、僕も笑った。

彼女は僕の膝に飛んできた日傘と落とした紙コップを拾い、話しを続けた。

「ごめんなさい。本当にお母さんの気持ちも、おとうさんの気持ちも、あなたの気持ちも知らないのは、私ね。」

「傘まで飛ばして僕のおふくろを弁護したのは、きみが始めてだよ。」

「あははは、どうもすいません。ねぇ、軽井沢のレースに応援に行っても、いいですか?」

「別に、僕の許可なんて必要ない。」

「そうか。あっ、ここのマネージャーを募集しているのは、本当なんですね。受付のところに募集広告が出ていました!」

「うん、地味な仕事なんで、あまりなり手がいないんだ。」

「ひょっとして、あのコーチとも一緒に働けるかな?」

「もちろん。」

「ちょっと待っていてください。今、申し込んできます。コンタクトレンズもずれたみたいなので、それも直してきます。

ちょっと、時間がかかるけれど、待っていてくださいね。」

そう言うと、彼女は頬の涙を手の甲で拭い、日傘を置き、スポーツセンターに小走りに向かっていった。

行動力のある彼女……。

ベンチの上に置いてあるサーティンワンの袋に蟻が歩いていた。おまえ達も、暑いのにご苦労だな。

僕の頭に響く、彼女の言葉「お母さんのせいじゃない!!」。分かっているさ。おふくろのせいじゃない。

製薬会社のせい? 研究者の怠慢?  それで、この結果?  ふ〜ん、たいしたもんだ。 僕の36年間。昔の恋人。

蒼い海、プールサイドの歓声、ひとりで迎えた朝、悔しさで眠れぬ夜、誰からも愛されない恐怖、左手首の傷……。

動物実験? 催奇形成試験?  データ?  確率?  だから?  それで?  ……。握りこぶしを車椅子に叩きつける。

この痛みをどこに向ければいい?

「大丈夫?」

額に汗を浮かべた彼女が、僕を見下ろしていた。

「……大丈夫さ。マネージャーの口はまだ空いていた?」

「ええ。来週の日曜日から来ます。できるだけ、毎週来ますね。軽井沢のレースまであと1ヵ月ですもんね。 頑張らなくちゃ!」

「君の好きにすればいいよ。」

「そうします。ところで夏休みは?」

「今度の水曜日から次の日曜日まで。」

「ふ〜ん、水曜日か。水曜日に海に行きませんか?」

この娘は、僕の言うことなんか聞いていない。

「無理。」

「どーして?」

「来週の日曜日に、また。今度、来る時には軍手を忘れないように。麦茶おいしかった、ありがとう。」

彼女を置いて、歩道橋へ向かう。後ろから、彼女の足音。すぐに僕の車椅子の脇に並ぶ。

「どーして、無理なんですか?」

僕は黙って、歩道橋の上り坂を車椅子で登る。彼女が、車椅子の後ろにまわり、僕を押す。

「ありがとう、でも、大丈夫。これも練習だから。」

「あっ、そうか。」

黙って、歩く彼女。真っ直ぐ前を向いて歩く。僕は車輪を回しながら聞いた。

「何かのクラブのマネージャーをやったことは?」

「無いんです。私って、あまり器用じゃないんですよね。思い付くとすぐに行動に移すし、それでいて、いつもとんでもないドジをするし。マネージャーが勤まるかしら?」

「Patience。」

「忍耐? う〜ん、難しいかな。」

「だったら、海はもっと難しい。」

歩道橋の上り坂を登り、息を整える。下り坂が僕は苦手だ。いつも、歩道橋のちょど真ん中で止まり、心の準備をする。

車椅子は下り坂でもブレーキが利くようになっていたが、遠い記憶が僕を恐怖に陥れる。

レースでも僕は下り坂で、いつも抜かれてしまう。

「大丈夫ですか?」

「ちょっと呼吸を整えている。」

「そうですよね。この歩道橋の上り坂は、私でも結構きついです。

へー、ここからきれいに富士山が見えるんだ。

ワンボックスカーをレンタルすれば、いいですよね?」

「え?」

「海に行くときに、そのほうが乗り降りが楽でしょ?」

僕は答えずに、下り坂に向かった。

スピードを殺さないように、バランスに気を付ける。

まず、最初のスロープ。7mの下り坂。そこで、Uターンのカーブ。カーブで僕の心が萎縮すると、転倒する。

スピードを怖れずに立ち向かい、車椅子を完全にコントロールすればよい。

カーブを曲り、残り7mの下り坂。今日はうまくいった。

日傘をしまい、僕に遅れまいと懸命に走ってくる彼女。

「凄い! 凄いスピードで降りるんですね。怖くないですか?」

「別に。」

「私も海に行きたいの。」

「一人で行けばいい。でなかったら、僕以外とでも。」

「あなたも行きたいって、あんなに日記に書いていたじゃない?」

「無理。」

「どうして? どうして、そう決めつけるの?」

僕は、車椅子を止めた。彼女も止まって、僕を見下ろす。僕はため息をひとつ、つく。

「今までも、ずっとそう。大変なんだよ。」

「今までは、そうだったかもしれない。でも、こらからは違うかもしれないでしょ?」

「それも、きみがあの会社に勤めているから? それも罪滅ぼしなの?  会社に加担したくないから?」

「……。」

黙って、僕を見つめる。

「ごめん。でも、とにかく思っているよりも大変なんだよ。」

「やってみないと分からないから。私は、想像力がないの。どんなに大変かやってみないと、私には分からないの。」

「みんな、今までの人たちも、それで別れたんだ。」

「私は、あなたの昔の恋人でもないし、それに、今の恋人でもないわ。今のところ……」

頑固な性格。

「頑固なんだ。」

「あなたもね。」

「……。そう、そうだね。じゃ、あとでメールで連絡するよ。」

「やった!」

やれやれ。

「エンヤの Only Time が好きです。 あとね、イタリアが好きなの。」

彼女の優しい目が輝いている。笑顔がかわいい。

蝉の声が一層、大きくなった気がした。僕の7年間。



(上へつづく)


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