2010年09月23日

はがき(2)

    5


彼女からのはがきを見ながら、何故、彼女が僕にはがきを出してくれたのか考えてみたが解らなかった。
あとは、彼女の帰国を待つだけだった。


この時点でプロジェクトの終了予定まで、あと2ヶ月弱しか残っていなかった。
他の会社のときと同じように、最後の仕上げのために僕は深夜まで仕事をやるようになった。
誰もいなくなったオフィスで、仕事に疲れた時には目の前にあるゴッホの絵をぼんやり眺めていた。
その絵から何もないときは感じない暖かさが、疲れたときには感じられる。
また、その暖かさが日に日に強くなってくるようでもあった。
その椅子は部屋の片隅に置いてあり、誰かが座ってくれるのを待っているように見えた。
僕に座って休憩するように言ってくれている気がした。

そして、気がつくと彼女のことを考えていた。“でも、彼女はどうやって“絵はがき”を選らぶのだろうか?“

彼女が帰国する日がいつのまにか楽しみになっていた。


僕は努めて彼女たちのチームを冷静に判断するようにしていた。
そして、プロジェクト期間中に彼女たちのチーム全員の能力評価をすることも、僕の仕事の大きなひとつだった。
その評価は今後の彼ら/彼女らの将来を会社が決定する判断材料のひとつになる予定だ。
このことはクライアントの社員には知らされていない事項だった。
そして、クライアント側からは、僕が評価を受けることになっている。


この仕事をやり始めたころ僕は、他人の評価なんてできないと思っていた。
他人を評価する能力が僕にあるとは思えなかった。
しかし、会社は人を評価する観点を僕に教え、評価のためのマニュアルや評価チェックシートの使い方を僕にトレーニングした。
それでも、そんなもので、人を評価することが可能とは思えず、随分、悩んだ。ましてや、僕が行う不完全な評価が、一人の人間の将来を決めることにつながることを考えると、悪寒が走ることもあった。


そもそも、僕自信が他人から評価されることに恐れを感じていた。
子供の頃は病弱で、しかも、脅迫神経症の父と鬱病の母に育てられた僕は、いろんなことに恐れや罪悪感を感じた。
小学生の低学年の時は夕方4時を回ると、もう父親が心配になり、近所を捜しにまわった。
中学生になってからでさえ、夕方7時近くになると片っ端から、僕の友人の家に電話をかけ、僕を探し出し、帰宅させた。

こうして、繰り返し、繰り返し、学習させられた行為は大人になっても大脳の奥深くに刻みこまれ、なかなか、この呪縛から抜け出せないでいた。
仕事の帰りに飲みに誘われるとついては行くが、飲み屋にいる間も、仕事のことが頭から消えず、何故か、はやく家に帰ることしか考えず、“楽しむ”ことに罪悪感を感じた。
そもそも、僕はお酒を飲めないので、“酔い”をしらず、無条件に“楽しい”ということが、たとえそれが、お酒の力を借りていたとしても、僕にはなかった。


何もしない休日が来ることを恐れていた。
それが普通であり、仕事が残っていても残業もせずに帰る同僚は“不真面目”だと少なからず感じていた。
今では、僕のほうが異常であり、周りの同僚のほうが普通であることを知ってはいるが、それでも100%楽しむことを知らずに今日まで来たと言ってもよかった。



人の言葉にも傷つきやすかった。
僕の親は人の言葉を悲観的にとらえ、信じられない位、臆病に暮らしていた。

人が言った何気ない言葉がどんなに人を傷付けるかを目の当たりに見て育った僕は、いつのまにか、自分の言葉を失い、つくろった言葉だけを話すようになった。
その分、相手にも無茶を承知で僕を責めることを言って欲しくないと思っていた。
もちろん、社会はそのように出来てはなく、相手のことを考えて話すより、正論をはく人のほうが圧倒的に多くいることに気づいたが、僕のそのような悪癖は、簡単には直らず、他人の言ったことをいつまでも、くよくよと考えていた。



また、僕が新しいことにチャレンジしようとすると、僕の親はまず、否定的な言葉を言った。
それは彼らの習慣のようになっていて、深く考えたすえに言った言葉ではなかったが、むしろ、その方が恐ろしいことだった。
おかげで、僕は現状を常に満足するよう強制され、新たなことは、困難なことであり、危険であるという無意識を植え付けられた。



僕の好ましくない性格を全て、子供時代の育てられ方のせいにするのは、それ自体が過保護に育てられた証拠のようで、このような考え方を今はやめたが、決定的なことは、精神的な病を引き継いでしまったことだった。



僕の母は若いころから、冬から春にかけて、鬱状態になっていた。
ひどいときは、三ヶ月近くも寝込んで、苦しんでいた。
時には自分が癌にかかっていると思い、いろんな病院に通ったが、どこでも何の異常も見つけられなかった。
それでも、母はある期間が来るまで、繰り返し、自分は不治の病にかかっていると思い込んで、苦しんでいた。
それは子供の目から見ても、恐ろしく、毎日、母の病気が治るよう神様に祈ったりした。

それも春が来て、暖かくなるころには少しずつ良くなってくる。こんなことが2〜3年周期でやってきていた。
その度に家庭の中は暗くなった。




その病は僕が25歳になった時に突然襲ってきた。

母があんなに苦しんだことがよく分かった。
特に自分が鬱状態のときに、普通の人に助けを求めることが、どんなに相手にいやな思いをさせるかが、母に対する自分の体験から解っていたので、なるべく助けを求めようとせず、なおいっそう苦しかった。
また、そもそも、この病は社会的に認知されてなく、たいていが「なまけ病」や「甘えている」、「気のもちよう」の言葉で片付けられていた。

この病気は脳内のある種の物質が不足することが原因と解っている病気なので、それらの言葉は「肺炎」や「糖尿病」の人に「気の持ちようで治る」と言っているようなものだが、普通の人には解らないので、僕もこれらの言葉の裏にある相手の、僕を励ましたいという気持ちだけを考えるようにしていた。


もう10年以上この病気とつきあってきて、今ではあぶないと思ったら、早めに薬を飲んで、コントロールしているが、それでも、まだ、時には、深い理由もなく、悲しい気持ちになり、人に自分の気持ちを話したくなるが、誰もそんな話しに、こんな病気が隠されていることを知らないので、僕が期待する言葉が返ってこない。
それに、誰もそんな陰うつな話しなんか聞きたくない。
そうなると、ますます、気が重くなることを知っているので、こんな時には一人で我慢するようにしているのだが、どうしても、誰かの優しい言葉が聞きたくなり、深夜に電話をかけたりする。


こうして、僕は、ひとり、ひとり友人や恋人を失っていった。

そして、その電話をかけること自体が相手に迷惑であり、負担であることを知っている僕はまた、新たな悲しみに落ちる。
こんなジレンマと際限の無い悲しみが生きている限り、延々と続くのかと思うと、深い絶望に陥ることもある。

そして、僕には純粋な楽しみなんてないんだと信じこんでいた。


だから、クライアントの一人である彼女にあうことが、少なからず楽しみになった自分に驚いた。


    6


彼女が10月の下旬に帰国し、プロジェクトの会合があった。今までの成果と今後の予定を確認し、会議は3時間で終わった。
彼女は日本語で行った僕らの会議の議事録を英語で要約してくれた。
新たな能力をまたひとつ彼女は身に付けた。

その議事録を受け取るとき、彼女に時間がとれるか聞いてみた。
今日はもう他に仕事が無いということなので、そのまま、外に出て喫茶店で話しをすることにした。



「絵はがきをありがとう。」

「気にいりました?」

「とても、気にいったよ。…でも、どうして僕にはがきをくれたの?」

「あの絵はお礼です。」

「お礼? 何にたいするお礼なのかな? 僕は何もやっていないけれど。」

「このプロジェクトで、私たちのチームをサポートして頂いていることに対するお礼です。」

「それは、仕事だから。それに契約料もたくさんもらっているよ。」

「それは、それでいいんです。会議のときに私のサポートをいつもやってもらっていますから。
それに、私の仕事の評価をして頂いて、そのおかげで、今回の個人的なイギリスでの勉強に行くための休みも取り易かったんです。」

「僕はなにも特別にきみだけのことを評価はしていない。」

「でも、先月のプロジェクト中間報告で、私たちのチームの成果をまとめて報告されましたよね。」

「きみたちのチームだけでなく、他のチームのものも含めてね。」

「私たちのチームだけが、スケジュール通りで、それは、私の貢献が大きいと、部長に言われました。
リーダーよりもサブリーダーのおかげだって。」



確かに僕はこの中間報告の前に、チーム全員の中間評価を提出していた。

その中で、彼女の言ったとおり、リーダーの男性はリーダーにはむいておらず、むしろ、彼女のほうが、リーダーむきであると報告した。
しかし、最初はこの報告書を書き直すよう指示が出された。
理由は、リーダーの男性をもうすこし“好意的”に評価するよう、そして彼女に対する評価が少し“好意的”すぎないか再考することだった。
この指示が腑に落ちなかったため、調査したら、この指示はクライアント側からついたクレームだった。


リーダーをやっている課長は来年には部長に昇進すべき年齢になるため、このプロジェクトで実績を残しておく必要があった。
つまり、他人がそう考慮してあげないと実績を作れないような男だった。


僕は彼女に対する評価は変えず、彼に対する評価の文章にいくつか“修飾語”を追加して、再提出した。




「きみたちのチームがスケジュール通りで、それがきみのおかげだというのは事実で、誰が、見ても解ることだから、僕の評価で、部長がきみにそう言ったわけではないと思う。
たとえ、僕の評価がなくても、きみのことだからいずれ、要求は通ったさ。」

「ちょっと、それは難しいなァ。私だけでなく、女性に対する評価はあまり期待できない所なんです、あの会社は。
誰がみても解ることを、きちんと評価して、報告してくれたことが嬉しいんです。」

「そう? それはあたりまえのような気がするけれど。」

「私にとっては、あまり無いことなんです。
イギリスへ行くことも、もう随分前から、お願いしてあったんですが、あまりいい返事がありませんでした。だけど、先日の中間報告のあと、急にOKがでました。」

「…あまり、僕の評価とは関係ないと思うけど、でも、いずれにしても、絵はがきをもらったことは嬉しいよ。」

「本当は、ワープロを持っていってたら、きちんと文章を打てたんですけど、持っていってなかったし、点字は読めないと思ったので…。
帰ったらきちんとお話しをしようと思っていました。 名前と住所だけなら、なんとか書けるので送りました。」



確かに僕は点字を読めない。そこで改めて彼女に聞くことを思い出した。



「ちょっと、聞きたいことがあるけれど、いいかな?」

「ええ、なんでも。」

「どうやって、絵はがきを選ぶの?」

「……私には、よく解らないのですが、絵には見る人の心を動かす力があると聞きました。そうですか?」

「うん。いい絵には心が動くことがあるよ。」

「やはり、そうですか。時には、言葉では表せない表現を絵がしてくれるそうですね。
それで、時々、私も自分の気持ちを絵で表すことができたらいいなって、思っていたんです。
でも、自分で絵は描けないから、きちんとした画家が描いた絵を選んで、相手に渡すことにしたんです。
だから、あの絵はがきは、お礼だけではなかったんです。」

「うん。」

「絵は自分で選べないから、まず、送る人が今、どんな状態か、自分はその人にどんなメッセージを送りたいのかを考えます。
そして、そのためには、どんな絵がいいのか考えて、それを口に出してみます。
それで、うまくいくかなって、思ったら、それをお店の人にそう伝えて、選んでもらいます。
だから、お店の人のセンスがないとうまくいかないので、きちんとした、専門店でないとだめなんです。
でも最近、信じてもらえないでしょうけど、絵に手をかざすと、なんとなく、その絵の持つイメージが解るようになりました。」

「なるほど。それで、あのゴッホの絵はどういうメッセージを、僕に送ってくれるために選んだの?」

「あの絵を見てどんなふうに心を動かされましたか?」

「…普段はなんともないけれど、仕事で疲れたときに見ていると、心が暖かくなってくるよ。」

「ですよね。あの絵を持ったときに私も暖かさを感じました。ほかにはどんな感じを持ちましたか?」

「椅子が、僕を呼んでいるような気がする。いつでも疲れたときは、ここにおいで、そして、私に座っていいんだよ、って呼んでいる。」

「う〜ん、私の英語もまんざらでなかったんだ。そんな絵を送りたかったんです。」


(上へつづく)
posted by ホーライ at 20:59| Comment(0) | はがき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

はがき(1)

  1

それは一枚のはがきから始まった。


10月のある日、ゴッホの描いた「椅子」の絵はがきがロンドンから送られてきた。
シンプルで存在感のある椅子の絵で、それは、僕の机の前にあるパーテションの壁にピンでとめられている。

その葉書には宛名である僕の住所と名前、それに差し出し人の名前が書いてあるだけで、他に文面は無かった。
差し出し人の彼女とは6ヶ月前から、あるプロジェクトの仕事をいっしょにやっていたが、クライアントである彼女の会社は大阪にあり、月に2,3回、僕が大阪に行った時に数時間打ち合わせをやるだけで、帰ることが多かった。


彼女はこのプロジェクトの中にあるチームのサブリーダーをやっていた。
僕の仕事はそのプロジェクトが予定通り進行するのを助ける役割をするだけだった。
解決しようとする問題とは何か? その問題の本質とは何か? 会議の話題がポイントからそれていないか? …etc.
これらに対するヒントを彼女たちに与え、解決策を見つける舵取りをする。


この種のトレーニングを受けていない一般のビジネスパーソンに道筋を与えるのが僕の勤めているコンサルティング会社の仕事である。
彼ら/彼女らは、時に問題の本質をすり替え、時に問題の本質を見ようとせず、時にプロジェクトそのものから逃げようとする。
羊たちを一匹残らず小屋へ連れていく牧羊犬のような仕事を、僕はいろいろな会社(その従業員)を相手に8年間やってきた。

彼女のチームは、どちらかと言うとまとまりが無く(これは僕が相手をした9割のチームがそうだが)、会議も散漫になりがちだった。
リーダーが年齢だけで課長になったような人物で、自信がなく、いつもうつむきかげんに自分のことしか話さないタイプの男性だから、このチームがスケジュール通り進んでいることはサブリーダーである彼女の貢献がいかに大きいかわかる。

会議の中で彼女はチーム全員の聞き役にまわり、その交通整理を行っていた。
彼女は会議の時間の8割を聞き役にまわり、残りの2割のうち1割を交通整理に使い、最後の1割に自分の意見を言う。
その間中、彼女はPCを使って、議事録を作成していた。
会議が終わると議事録も出来上がっていた。彼女の作成した議事録はちょっと特殊で、すべて“ひらがな”で打ってある。


全盲の彼女には漢字を選択することができなかった。





彼女はこの会社に入って6年になる。

所属は総務部で、最初は電話番をやっていた。
従業員がある人数以上の会社は一定の割合で、身体障害者を雇用する義務が法律で決められたため、彼女は採用された。


彼女はまず、部署内の90人の内線番号を覚え、次にPCの操作を覚え、ワープロ入力を覚えた。
目の見えない彼女がどんな苦労をして、これらを習得したのか僕には想像もできない。


そんな彼女の練習を見ていた総務部長が彼女に、たいした期待もせず、ひとつの仕事を与えてみた。
彼女にある会議を録音したテープを渡し、その内容を一字一句間違いなく入力する仕事、いわゆる“テープ起こし”だった。
2時間の会議内容を彼女は4時間で入力した。
次にその内容をまとめる仕事を頼んだところ2時間で提出されてきた。
彼女の聴力は目が見える人に比べたら比較できないほど素晴らしく、また、文章構成力は素早く、正確にまとめられていた。
総務部長はすぐに部内に、彼女の新たな仕事を通知した。


彼女が会社に入って2年目から追加されたその仕事は、依頼された部署の会議に出席し、その議事録を作成することだった。
会議が終了して、1時間もすると要領よくまとめられた議事録が提出されてきた。
ただし、それは相変わらず“ひらがな”だけの議事録なので、目でみるには苦労することだけが唯一の欠点だった。
そこで依頼した部署が最後にやる仕事は、彼女から提出されたきた議事録を再度、今度は“漢字”混じりに入力し直すことだった。
それでも、その時間は以前、部内のチーム員が議事録を作成していた頃に比べて“あっ”という間と言ってよかった。
そして、何よりも要領よくまとめられた議事録は、今まで返りみられることが無かった“議事録”そのものの存在価値を、全員に再認識させてしまった。
会議中に解ったつもりでいたことが、誤解だったり、なぜ、そのような発言がなされたのか、会議に出席している時よりも、議事録を読んだ時のほうが明確に解った。
誰が、いつまでに、何をすべきかが明示され、かえって困った人が増えたという逸話までができてしまった。


誰もが彼女の努力に驚き、その入力スピードに舌をまいた。
しかし、それでも、まだ彼女の能力は正当には評価されずにいた。
時に、それは過小評価の範囲を超え、彼女の能力に対する嫉妬心からの“不当な差別”と言ってもいいこともあった。
盲導犬に対する認識不足(例えば、勝手にお菓子をやろうとした)は、まだしも、あからさまに「犬の臭いが洋服につく」、「犬の毛が飛んでくる」という言葉を彼女に、はいていく人たちがいた。
そんな時に彼女はただ小さく「ごめんなさい。」とつぶやくことしか出来なかった。
そして、その人たちが、さらに冷たい言葉を彼女に投げつけて立ち去っていくと、彼女はまた黙々と議事録の入力を続ける。



視力を失った目からも、涙がでた。







その後も、しばらく彼女は単なるタイピストとしか扱われていなかった。あらゆる部署から会議に出席させられた。


入社して3年目のある日、米国からやって来た顧客との会議に日本人役員たちと同席した。
日本人と通訳の話すことだけを入力すれば良いということだった。
いつもの通り、会議中に議事録を作成していたが、会議が終了すると、その米国人は彼女のもとに歩みより、通訳を通して話しかけてきた。



「会議中、何を入力していたのか?」

「議事録を打っていました。」

「いつ提出できる?」

「今でも提出できます。」

「いつ、PCを習った?」

「会社に入ってからです。」

「いつから目が見えない?」

「生まれたときからです。」

「タイピストとしての専門教育はどこで受けた?」

「どこにも行かずに、自分一人で…」

「そこまで出来るのに、何年かかった?」

「2年です。」



米国人は通訳に彼女の入力した、議事録を読んで、どう思うか聞いてみた。
スピーチを短時間にまとめる特殊な訓練を受けたその通訳が見ても、彼女の議事録は素晴らしい出来ばえだった。
ただし、ひらがなだけで、読みづらいと通訳はその男に伝えた。



「英語はできるか?」

「いえ、できません。」

「是非、英語を覚えるといい。英語には“漢字変換”が必要ない。きみの入力したものが、そのまま議事録として使える。」

「…」

「そして、英語ができるようになったら、私に連絡をくれないか? 秘書として雇いたい。」

「…」


同席していた、日本人役員は目の前で行われるヘッドハンティングに唖然とした。

彼女はこの日から英語の勉強を始めた。
英語のタイピストとしての資格も欲しかったが、何よりも、他人の能力を素直に評価する国に憧れを持った。

そしていつか、そんな所で仕事をしたいと思い始めていた。







音だけの世界に生きてきた彼女は、リズミカルな英語のサウンドに惹かれた。
英語のテープを聞いては、それを入力していった。
確かに、漢字変換をしなくて良いのは効率的に見えたが、彼女の勤めている会社では、英語を使った会議があまり無いため、それほど役に立たなかった。
また、英語で要約する作業も、日本語のようにうまくはいかなかった。
そのため、何度か英語の勉強をやめようと挫折しかかったが、あの一人の米国人の言葉だけを支えに彼女は訓練を続けた。

そして、また、あの時の言葉は彼女に自信も与えた。


会議で出席者の発言を入力するだけだった彼女が、時おり、会議が迷路に入り込んだときに、それまでの流れを整理して、みんなに教えてやることがあった。
初めは、ただのタイピストとして誰も気にとめていなかった彼女の発言に驚いた。
議事録が回ってくると彼女を思い出すことはあっても、会議中は彼女の存在すら忘れられていることが事実だった。
“ただのタイピスト”は意見を言わなくてもいい、ということを回りくどく言う出席者もいた。
しかし、それでも彼女は、みんなが何故、こんなことに議論を交わしているのか解らなくなってくると、助け船を出した。
それは、彼女が持って生まれた性格から来るものだった。

“周りに困っている人がいたら助けてあげたい。少しでもみんなが幸せになれることなら進んでやりたい。” と彼女は思っていた。
そして、いつも目が見えないために、自分の思っていることの半分も出来ないことを悔しがり、その結果、自信をなくして生きてきていた。
それが、あの時の米国人の一言により、本来の自分を少しずつだが、出せるようになってきた。



彼女が会議の交通整理を始めて半年もすると、比較的、オープンな心の持ち主が議長を務めている時には、彼女に意見を求めるようにもなってきた。
それまで、部内のあらゆる部署の会議に出席してきた彼女の知識はある意味で、最も信頼のおける情報源でもあった。
そのため社内のライバルの弱みを握ろうとする者たちが、彼女から情報を聞き出そうとしたが、そんな時、彼女は困った表情を浮かべ、首をかしげて相手のほうに顔を向けて、ただ、黙っていた。
彼女の真摯な態度で見つめらると(本人たちはそう感じてしまう)、自分の行為がたまらなく下劣に思え、今では誰もそんなことを彼女に聞く者はいなかった。



初めて会議で意見を求められた時、彼女はドキドキした。

“自分の意見が言える!”それは自分の存在が認められたことでもあった。
子供のころから、周囲の手を借りないと生きていけない存在だったため、常に控えめに生きてきた。
自分が“希望”を言うことは周りの人たちに迷惑をかけることだと、ずっと思ってきた。
だから自分の意見を言うことには慣れていなかったのだ。
初めはうまく意見が言えず、くやしいこともあったが、時には出席者のひとりが会議後に、彼女に励ましの言葉をかけ、時には別の出席者が、彼女の会議中の助言に感謝の言葉を言ってくれた。


こうして、徐々に自信を持ち始めると、言葉を選び、会議の方向性を見定め、意見を言えるようになってきた。
そして、いつのまにか、彼女の正確な知識から出される、ポイントをはずさない意見をみんなが期待するようになった。

そして、ひとつのことに自信を持つと、本来の前向きである彼女の性格が全面に押し出され、性格も明るくなり、積極的に外部の世界と関わりをもつようになってきた。

もう誰も犬の臭いや毛のことを言わないし、たかがタイピストと言う者もいなかった。

彼女は心から、あの米国人に感謝した。


こうして、入社して6年目になると、彼女は部内の全部署にまたがるプロジェクトで、あるチームのサブリーダーに選ばれることになった。



上につづく
posted by ホーライ at 20:55| Comment(0) | はがき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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