2010年09月23日

はがき(4)

     9

12月で、僕と彼女たちの関わってきたプロジェクトは一段落する。

それに向けて、僕は彼ら/彼女らの仕事を収束させていった。

彼女のチームはある程度の評価が得られるところまで、きていたが、他のチームは来年への積み残しがかなり有った。

そして、クライアントの上層部とチーム員の評価に対する会議が開かれた。


彼女の評価は始めから決められていたようだった。

それは、リーダーとの相対的な評価になり、課長である彼を部長にするためには彼女の評価は低くせざるを得ないということだった。
僕は納得できないと言った。


「でもね、きみ。これはうちの会社のことだよ。そこまで、きみたちの会社に踏み込んでもらいたくないね。」

「しかし、我々もコンサルティング会社として、いかに御社の活力を上げるか、いかに停滞した空気を一掃するかを真剣に考えています。
そのためには、多少、御社にも立ち入ったことを言わざるを得ないこともあります。」

「それは解っている。それは、それでいいんだよ。
でもね、彼はもう年齢が年齢だ。
彼を上にあげないと、下のものを上に上げられない。
それもまた、若手起用を妨げることになるじゃないかね。そうだろう?」

「彼はそれでいいでしょう。しかし、彼女の評価が低すぎます。彼女の能力はご存知のはずですよね。」

「バランスじゃよ。バランス。そうだろう? きみたちの評価では、あまりに彼女が目立ちすぎる。
これでは、彼の存在が薄いだろ? それに彼女だってまだ若いんだから、チャンスはいくらでもある。
それに彼女にしたって、ここまでくれば、もういいんじゃないのか? あの子は、まぁなんて言うか、うちがちゃんと障害者も使ってますよ、という看板だけなんだから。」

僕が立ちあがるより先に、ボスが僕の腕を引きとめた。
浮き上がらせた腰を、仕方なく椅子におろした。<一体、この会社の人間はどうなってんだ。> 僕は喘ぎながら、そう思った。

「彼女には新しいポストに移ってもらったらいかがでしょう? どうせ、今回のプロジェクトで新たなポストが出来ますし、彼女にもうってつけではありませんか?」

僕のボスは冷静にそう言った。僕はまだ、息づかいが荒かった

新たなポストは彼らの会社が国際化を図るための、調整部署だった。
彼女が英語を使える場所に移動するのは、僕も不満は無かった。それに、そこに行けば、海外での仕事も夢でなくなる。


「そうだな…、そこに主任として行ってもらえば、バランスもいいか。」

この男は、世の中が全て、バランスよく出来ていると単純に思っているらしい。

プロジェクトの積み残し作業について来年のスケジュールを確認し、自分たちの会社に戻ると、ボスに呼ばれた。


「最近変わったな?」

「そうですか?」

「以前はあんな場面でも、きみはポーカーフェイスでいた。
それにミーティングでの発言内容も自分の意見を強く押し出すようになってきた。
時には感情的すぎるくらいにね。
だから、個々の発言を見ると、計算されずに、その場の発言も多くなった。
だけど、全体的に見ると、今のほうがずっといい。
パフォーマンスも上がっている。
前は、なんて言うか、良い意見だが、つまらない、って感じだ。
もちろん、ビジネスだからそれでもいいと言う意見もあるだろう。でも、それでは味気ない。
そうじゃないか?」

「前はそんなに、つまらなかったでしょうか?」

「ほら、きみ自身が気づいてなかったんだ。
例の彼女に対する評価について、発言した時は、彼女に対するきみの個人的思いれがあるせいと思っていたが、考えてみたら、それだけではない。
最近は仕事も早めに切り上げることもあるって聞いているよ、と言っても他からみれば結構遅いが。」

「仕事はスケジュールを守ってやっています。」

「そんなことはいい。きみのライフスタイルが変わったってことだ。
うちの女性社員の評判では、最近は生き生きとしている、そうだ。ついでに言えば、顔も引き締まり、スタイルも良くなったとのことだ、うらやましい限りだ。」

「…」

「きみはこれまでは、可も不可もなくだった。
まぁ、上司の立場で言えば、仕事は良くやる、クライアントの顔は立て、同僚とも問題を起こさない、という典型的な優等生タイプだから、手はかからず、目を離していてもいいので楽な部下だった。
でもな、本当のことを言うと、それだけだ。
もし、このままでいけば、小さく収まった、つまらないサラリーマンで終わるだろうって思っていた。
なんとか、それだけは避けようとおれも考えていたところだった。
ところが、この2〜3ヶ月できみは大きく変わった。
おれが見てもおもしろくなった。
頼もしくなり、それにタフになった。何がきっかけで変わった?」



1枚のはがきだ。そして、そのはがきから始まった、彼女との交流だ。



「ゴッホかな。」

「ん? 絵描きのゴッホか?」

「どんなことにも、きっかけてあるもんですね。」

「…まぁ、いい。その調子でやってくれ。」


プロジェクトの最終プランを作りあげると、ランニングをやるため、会社をでた。



     10


12月最後の会議のために大阪に行った。


来年の人事が発表になっていた。
リーダーの男はプロジェクトチームの目的より、自分のポストの重要性を話題にしたがっていた。
彼女が今までの活動の総括を報告し、メンバーに感謝の意を述べ、さらに来年以降の協力もお願いし、会議を終えた。
リーダーが臆面もなく、僕に飲みに行かないかと誘ってきたが、断った。


冬の都会はきれいだ。空気も冷たくて気持ちが良かった。

僕らは2時間かけてランニングをし、川べりのベンチで休んでいた。
街が夕闇につつまれてきた。夕焼けがビルの影を浮かびあがらせ、川面に様々な色の光が映えり、橋がライトアップされ、刻一刻と空と街の表情が変わっている。
僕がその色を感じていると、彼女が言った。


「冬は日が沈むのが早いって言いますよね。」

「そうだね。」

「それは、“さびしい”という感情を込めて、みんなは言っているみたいですけど、そうなんですか?」

「人によっては、そうかもしれない。」

「どうですか?」

「僕はこの季節の、この時間が好きだよ。」

「冬の夕暮れが、ですか?」

「うん。」

「どうして?」


僕は言葉に詰まった。


空が夕焼けの朱色と夜の藍色のコントラストに染まってきた。
それは目の見える人間に対してさえ、説明の難しい美しさを湛えていた。
僕は言葉の限界と神に対する嘆きを感じた。<何をどうやって説明すればいいんだ!>


彼女が頭を僕の肩にもたれかけてきた。

「それは、この季節の、この時間の街の“色”が好きってことですね?」

「…うん。」

そのまま、彼女は黙った。


誰に対しても言えない悲しみを彼女は、生まれてからずっと心の奥に押し込めて生きてきていたのだ。
神に嘆くことさえ、むなしくなるような悲しみをこらえて、彼女はこれからも生きていかなければならない。

街を闇が支配してきたが、彼女は、それすら理解できない世界に住んでいた。


「その色はどう、心を動かすのですか?」

「……コンサートのあと、スポーツのあとの余韻が心のなかに響いてくる。
最初は小さな余韻が、徐々に大きくなってくる。
その中には、コンサート中の激しさや、スポーツの最中の苦しさも、そして、もちろん、楽しさも混ざり合いながら、心を包んでくる。
それが、やがて静かに、気が付かないくらい、静かに小さくなっていく、楽しさも、苦しさも。
でも、決して、さびしくはない。また、明日があるからね。
…あまり、うまく表現できなかったけれど解ってもらえたかな?」

「よく、解ります。……お願いがあるんです。」

「なに?」

「お化粧のやり方を勉強して欲しいんです。そして、私にお化粧をして欲しいんです。」

「僕が?」

「ええ。今までは、あまりしていなかったでしょ?」


確かに、彼女はいつも口紅をつけているくらいだった。


「今までは、お化粧の必要性も解らなかった。
自分のためでなく、他の人に必要と思うときは、母がやってくれていました。
だけど、自分でできるのも口紅だけだし、今年の“冬の色”はこれです、なんて言われても私には関係ない。
色が似合うというのも、どんなことか私には解らない。……私の顔の“色”や“形”は好きですか?」

「もちろん、好きだよ。」

「きれいですか。」

「もちろん。」

「一緒に歩いていて、恥ずかしくないですか?」

「恥ずかしくなんかない。」

「お化粧したら、もっときれいになりますか?」

「そのままで十分だよ。」

「でも、他の人と比べてですよ……。
他の人と比べてもきれい? 他の人と比べても恥ずかしくない? 他の人の方がきれい? 他の人と比べても好き? 他の人のほうが……」


彼女の唇にキスをした。
冬の冷たさが嘘のように暖かい。
彼女の腕が僕をぎゅっと抱きしめる。僕も彼女を抱きしめる。
僕の人生を覆っていた不安と恐怖が消えていく。安らぎが僕を覆いつくす。


「好きだよ。」

「……口紅を塗ってくれます?」

僕は彼女の唇に、“今年の冬の色”を塗ってやった。


「きれいだよ。世界中の夕暮れを合わせたよりもきれいで、世界中の、どんな街の冬の夕暮れよりもきみが好きだ。」

「ありがとう。私もです。……今まで聞いたどんな音楽よりも、どんな風の音よりも、どんな鳥の声よりも、あなたの声が好き。」

「僕の心にあった壁が、壊れていくよ。
自分を閉ざしていた壁が、崩れていく。僕が気づかないうちに、自分で築きあげてしまった壁を、きみが壊してくれたんだ。これから、僕は、僕自身に戻っていく。」

「私も、やっと信頼できる人ができた。
あなたの言葉を通して、世界の成り立ちや絵の意味や色がわかってくる気がする。あなたの隣なら、安心して走って行ける。」

「きみをずっと守ってあげたい。」


もう一度、“今年の冬の色”に僕は唇をつけた。



      11


2月の寒さの中、僕らは準備運動をした。

僕らの初めての、公式のハーフマラソンレースがまもなく始まる。


「いい子で待っているのよ。」


彼女は、盲導犬の頭を軽くたたいた。

空が澄みきっていた。

たった1枚のはがきから、ここまでやって来た。そして、これから、21kmのレースが始まる。



「次は、フルマラソンに出ようぜ!」

「まずは、今日のハーフでしょ!」

「水は5kmと10kmでいいかい?」

「欲しくなったら、左手を上げるわ。」


もう一度、僕の右手首と彼女の左手首をつなぐ紐の結び目を確認した。


「やっと、ここまで来た。」

「うん。でも、まだ“ハーフ”よ。」

「そうだ。まだ“ハーフ”だ。」


僕らのフルマラソンは、まだ始まったばかりだった。

呼び出しがかかった。


「コールだ、さぁ行こう。」


スタートの位置につく。ピストルが空に響いた。


僕らは、走り出した。


二人で。


                終




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はがき(4)

     8


その後、大阪での会議のあとは必ず、彼女と話しをするようにした。


彼女と話しをすることは、僕の心のリハビリでもあった。


また、彼女にとっても、楽しい時間が過ごせるようだった。僕の前で、笑うことが以前より多くなった。


彼女は、図書館で僕の病気の本を探し(点字に訳されている本はあまり多くはないらしい)、この病気の患者にはどう接したらいいのかを勉強していた。
ぼくは、ワープロで入力した日本語を読み上げてくれるソフトを探し、彼女のPCにインストールしてあげた。
このソフトを入れてからは、僕と彼女はE-mailでやりとりができた。
彼女はいつも短いが、よく考えられた暖かい言葉を送ってくれた。
決して、否定的な言葉を使わず、それでいて、僕を激励するわけでもない言葉を選んだ。
僕が気づかずに使っている“後ろ向き”の言葉を丁寧に“前向き”の言葉に言い換えて、根気よく返事をくれた。
それは、あまりに自然だったので、しばらくは、言い換えている事実すら僕は気づかなかった。


また、僕が新しいことにチャレンジすることをためらっていると、その新しいことを真剣に、いかにも興味深く、質問してくる。
僕がその質問に答えていると、いつのまにか、気が付いたら、そのことにのめり込んでいる自分がいることもあった。
彼女との会話を通して、新しいことにチャレンジする興奮もおぼえた。


彼女はカウンセリングの能力も身に付けつつあった。


彼女の目は角膜移植をすれば、見える可能性があることも知った。
しかし、日本ではまだ、アイバンクに登録している人は少なく、彼女自身もあまり、その点だけは希望を持っていないようだった。
彼女自身は脊髄バンクに登録をしていた。


< わたしじしんが、ちょくせつ、ひとのいのちを すくえるなんて すばらしい ことでは ありませんか? >


それまで、僕はどこに行ったらアイバンクや脊髄バンクに登録できるのかすら、知らなかった。

また、彼女はマラソンにも挑戦しようとしていた。

彼女は小学生の頃、目の見える人たちと同じ学校へ行っていた。
それは両親の希望だったが、かなり教育委員や学校、そのPTAから難色を示されたらしい。
しかし、両親の強い希望により、近所の公立の小学校に入ることができた。
教科書はボランティアと両親が作ってくれた点字の教科書を使っていたので、みんなと同じ授業を受けることができたが、運動会だけは嫌いだった。
彼女のやれる種目が無かったので、運動会の日は5年生まで学校を休んで、布団の中で一日泣いていたらしい。


6年生の時の担任は、クラスを5人ずつのチームに分け、チームのみんなが運動会の種目で何位になったかをクラス内で、点数を競わせることにした。
彼女のチームは男の子が3人で女の子が2人のチームだった。
彼女自身もなにか一つの種目に出場しないと、チームのみんなに迷惑をかけることになった。
しかし、彼女には、どんな種目もやれるとは思えなかった。
初めは、チームの他のみんなも彼女のことは半分諦めていたが、リーダーになった男の子はちがった。
彼は負けん気が強く、粘り強い子だった。
彼は彼女に200m走に出るように言った。


「これは、走るだけやから、簡単や。」


「そんなこと、ゆうても、私走ったことあれへんし。こわいわ。」


「大丈夫や、うちらがみんなでなんとかするから、なっ、がんばりや。」


そう言うとその子はチームの他の子と、なんとか彼女を全力疾走させる方法を考え始めた。
その日から放課後になると彼女たちのチームは、その日浮かんだアイデアを彼女に試してみることにした。

結局、彼女の脇をみんなが鈴を鳴らして伴走することになった。
200m走はグランドを1周する。
最初は直線コースでも彼女は恐がっていた。
しかし、毎日、毎日練習をし、本番当日では、彼女は生まれて初めて、カーブを全力疾走した。
その時の心地良さと爽快感と友人たちへの信頼感が、彼女には忘れられなかった。

< ふるまらそん に でたいけれど れんしゅう と ほんばんで ばんそうを してくれる ひとを さがして います。でも なかなか みつかりません。いっしょに はしって いただけませんか? >


しばらく迷った末に僕は大阪に行くときは、トレーニングウエアを持参することにした。
僕にはマラソンの経験は無かったが、彼女と走れるなら、いちから、練習してもよかった。
毎日、仕事は早めに切り上げ、ランニングの練習をした。
初めは1kmも走ると足が音をあげ、3kmも完走できない状態だった。
しかし、彼女とひもで手首をつなぎ、大阪の市営グランドのトラックを走ることは、これまでの人生で最も価値のある充実した時間だった。
そこでは、命令もなく、義務もなく、未来も過去もなく、ふたりの人間が走ることだけのために時間をすごせた。
3kmはやがて、5kmになり、12月になる頃には10kmを二人で走ることができるようになった。


僕は彼女のペースを考えて走り、彼女は僕を信頼して走っていることが解った。
走っている間は二人の息づかいしか聞こえない世界になっていた。
彼女にとっても、走ることにより、少しでも、目が見える人に近づけるという気持ちがあったのかもしれない。
走る距離が伸びるたびに、彼女は今まであった、目の見える人には負けまい、という妙な力みがなくなってきていた。


ある日、そのことを聞いてみた。

「最初はそう思っていました。でも、今はもう、そんなことは思っていません。
走ることを、純粋に楽しんでいるだけです。走ることとその後の充実感で、十分です。
楽しいことが増えたので、その分、普段の生活から、変な力みが消えたのかな?」

走り終えると彼女はいつも汗も拭かずに、真っ先に僕に向かって言った。


「ありがとう。」


僕はいつのまにか、本当に自分のやりたいことを優先的にやれるようになっていった。



(上へつづく)
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はがき(3)

     6(つづき)


「どんな絵を選んでほしいと、お店の人に言ったの?」


「とても疲れている人がいる。その人は心から休みたいのに、休むことを罪悪と考えている。
その人を休ませてあげたい。できるものなら、この腕でぎゅっと抱きしめてあげだい。
だからシンプルで力強く、それでいて、暖かい絵を送りたい。」


「…」


優しい笑みが彼女の口元に静かに浮かんでいた。


「どうして、そう思ったのかな?」

「休ませてあげたいってことですか? それとも、抱きしめてあげたいってことですか?」

会議のときの彼女を思い出した。
あやふやな質問の場合には、より具体的に要点を突いて質問を返してくる。冷静で、素直な思考力の持ち主であることを再認識してしまった。


「まず、休ませてあげたいってこと。」

「今年の4月から、ずっと一緒に仕事をしてきましたよね。それで、7月と今月の会議で声の様子がおかしかった。」



7月はこのプロジェクトが始まって3ヶ月目にあたる頃だ。
だいたい、この頃になると、どんなチームでも、最初の壁にぶつかる頃だった。
最初の勢いが急減し始め、中だるみがチーム全体を覆い、多くの問題に対する、多くの解決方法が提示され始め、どこから手をつけたらよいか、誰もが途方にくれる頃だ。
この時ほど、リーダーの力量が試される時はない。
僕は彼ら/彼女らを元気づけ、深い森林に迷い込んだ猟師のために地図を用意し、何もしないリーダーを安心させ、彼女の提出する議事録を読み、スケジュールを検討した。


僕の疲れも、ひとつのピークに達していた。
しかし、クライアントの前では、決して、疲労の色を見せなかったはずだ。
もし、僕が疲れたら、彼ら/彼女らは、もっとやる気を無くすことになるので、いつもより、なおいっそう明るい調子で会議に参加していたはずだった。
たとえ、僕の状態が解ったとしても、他の会社の人のことまで誰も心配はしないのが関の山だ。


「私の耳は普通の人よりいいと思います。何しろ、耳だけを頼りに周りの世界と接してきましたから。
二十歳のころから、人の声を聞くと、その人の状態が解るようになったんです。
それに、多分、以前の私と似た状態だと思った。」


「僕が?」


「そうです。」


「どんな状態?」


「以前の私は本当の私を生きていなかった。だから、そういう人の話し方がわかるんです。」


「どんな、話し方をするんだろう?」


「言葉を慎重に選びすぎ、感情を決して表にださず、トーンは一定の調子で、自分よりも相手の立つ場をまず考えた発言をする。
自分の心に踏み込んでくるような他の人の発言や質問のときは、必ず黙り込む時間が長くなる。
できたら、そういう質問には答えずにいたいと思っている。
もし、答えるときでも、すこしおびえたような、自信のない震える声で話す。まるで、自分が生きていること自体が、周りに迷惑をかけているという幻想をいつも持っている人の話し方。」


「……そうかも知れない。」


「ほらね。今もそう。」


彼女の笑みにより一層、優しさが増した。
僕はコーヒーを飲み、煙草に火をつけ、心を落ち着かせた。彼女も手でストローを探し、ジュースを飲んだ。


「そろそろ、帰りの新幹線の時間なんだけど、もう一つの質問にも答えてくれるかな?」


「何故、抱きしめてあげたいと思ったか?」


「そう。」


「安心させてあげたかった。
この世の中はそんなに悪意で満ちているわけではないってことを教えてあげたい。
誰もあなたのことを攻撃もしないし、知らない人ともすぐに友達になれることも教えたい。
なにも身構えることはないし、もっと心を開いたほうが疲れないってことも。
でも、心を開くことが恐い人だから、私が守ってあげられたら、きっと安心して自分を出せるかなって思いました。
そんなに、がんばらなくていいんですよって、昔の私に言いたかった。私もそんなに強い人間ではないけれど……。」


「どうして、僕がそんなにおびえていると思うの?」


「以前の私がそうだったから。」



それから、新幹線の時間まで、彼女のこれまでの経験や苦労、どうして今の彼女になれたのか、それに、僕の生い立ちや病気のことを話しあった。

こんなに素直に自分のことを話す人は初めてだった。それと同時に、他の人に自分の病気のことや、両親のことを話すのも僕にとっては初めてのことだ。

彼女は終始、優しい笑みを浮かべ、僕の言葉に耳を傾け、最後まで聞いてくれた。僕の主治医以外にこんなに心を開ける自分にも驚いた。


テーブルの脇に伏せている彼女の盲導犬までが、そっと目をとじ、僕の話しを聞いてくれているようだった。



     7

先日の中間報告は、クライアントの上層部に対する報告で、我々が直接、報告書の形で行ったが、今度は、チームメンバーの一人が社内の全員に報告する会が、開かれることになった。


本来、この仕事はリーダーがやることになっていたが、彼女のチームのリーダーは、この仕事を彼女にやらせることにした。
これには、僕も戸惑った。
彼がやるよりは、もちろん、彼女のほうが適任だと、普通なら思うところだったが、この発表はどうやっても、30分以上かかる。
原稿なしでは無理だ。それにもし、内容を忘れたときでも、普通なら話しのきっかけを作るスライドも彼女には役に立たない。
リーダーと二人で、話しをした。


「この発表は、彼女より、本来はリーダーのあなたの仕事かと、思いますが。」


「いや、彼女ならできる思うんだよね。」


「30分以上もかかる発表ですよ。原稿なしでは、無理でしょう。」


「大丈夫、大丈夫。もし、彼女が、つかえたら、僕がステージの脇から小さな声で教えてあげるから。彼女にもそう言ってあるよ。それで、彼女も了解したんだ。それに、点字の原稿でも用意すれば、大丈夫だろう。」


彼が、プロンプトの役をやってくれるなら、任せらるかもしれないと思った。


発表当日は、社長以下200人くらいの人間が講堂に集まった。
プロジェクトの発表が終わったあとは、この場で、立食パーティをやることになっているので、壁際には種々の食べ物も用意されていた。


演者は全員ステージの上で、座って発表を待っていた。
4つのチームが発表するので、2時間半くらいで終了する予定だ。彼女の発表は最後だった。


他のリーダー達はみな、原稿とスライドを見ながら発表していたが、彼女だけは、聴衆のほうに整然と顔を向け、話し始めた。(点字の原稿を用意していなかったのだろうか?)

彼女の発表はいつもの通り、解りやすく、声もよく通り、聴衆の心を捉えていた。
彼女の発表が始まって20分くらいすると、食事の準備のため、食器類が持ち込まれ始めた。


その時だった。
後ろで、心臓が止まるほど大きな音がした。
振り返ると、誰かが皿を落として割った音だった。
聴衆はみな後ろを振り返り、笑い声をだしたが、それもすぐに静まった。
僕も安心したので、彼女を見ると、彼女の顔面が蒼白だった。
今の音に脅えているようだった。
気がついた司会者が、皿の割れる音なので、心配せずに続けるように言った。
しかし、彼女はつかえたままだった。唇が震えているのが解った。


話しの原稿を忘れたのだ。
彼女はパニックに陥っていた。
演台を押さえる手が震え、それがマイクを通して聞こえてきた。
プロンプターのリーダーの声が聞こえないのだろうか?
僕はステージの近くまで行き、彼女に聞こえる声で、原稿の続きを言ってやった。
全員が僕を見たが、しょうがない。
彼女はようやく少し、落ち着きを取り戻し、発表を再開した。
もう、大丈夫だろうと思い、席に戻ろうとした時、聴衆の後ろのほうに、リーダーの男が座っているのが見えた。それも少し、笑みを浮かべながら。


彼女の発表が終わり、全員が拍手をしている間に、彼のところに駆け寄った。

「どうして、ここに!ステージ袖で、待機しているはずだったでしょう!」


「いやぁー。彼女ならうまくやれると思ったから、今日は、ここで聞いていたんだ。」


彼はニヤニヤしながら、言った。


「最初の約束と違うじゃないですか!」


「うーん。まぁ、彼女は僕よりも優秀だという評価も、もらっているそうだから。」


彼の椅子の下に皿の破片が散らばっていた。……この男がやったんだ。


「……。外で話しましょう。」


「何故?」


「いいから、外へ!」


僕が、彼を椅子から立たせようとしていたら、誰かが、僕の肩をつかんだ。


「よせ。」


振り返ると、僕のボスだった。僕は彼の手を振り払おうとしたが、彼は力まかせに僕を引きつけ、言った。


「それよりも、彼女のところへ行ってやれ。」


僕はその男に一瞥をなげると彼女を探した。




彼女は休憩室で泣いていた。同じチームの女性社員が何人か、彼女を慰めていた。盲導犬も心配そうに主人を見つめている。


彼女に近寄り、肩に手をおき、話しかけた。

「どうした? 今日の発表は良かったよ。」


僕が話しかけると、もっと鳴咽が大きくなった。

「びっくりしたら、誰だってああなるさ、しょうがないよ。」

首を振りながら、肩を上下させ、声を引きつらせながら、やっと話し始めた。

「な、何がなんだか、わからなくなって、何も思いだせなくって、それで、それで、リーダーの声も聞こえないくらい、私、あわてちゃって……。」


僕は迷ったが、リーダーがあの場に居なかったことは黙っていた。

「さ、誰もなんとも思ってないし、あの後だって、最後まで、きちんと発表できたじゃないか。みんなが待っているよ。パーティに行こう。」


「いやっ、帰る。」





周りの女性社員もパーティに誘ったが、首を振りながら、黙って泣いていた。

その日は僕が彼女を家まで、送ってやることにした。


会社の前でタクシーを拾うとしたが、“犬”が同乗すると解ると、みんな走り去った。
仕方なく、僕が彼女から少し離れ、止めたタクシーの運転手に事情と料金の上乗せを提示し、やっと彼女と盲導犬を乗せることができた。
彼女はしばらく泣き続けたが、10分くらいすると、ようやく泣きやんだ。




「…私ってだめね。」


「そんなことはない。」


「ううん。だって、目が見えないことで、絶対に泣かないって決めていたのに。」


「泣きたくなることくらい、誰だってあるさ。」


「だって、泣いてもしょうがないことなんだもん。
泣いても目が見えるようになるわけではないし…。
他のことで泣いてもいいんだけど、目のことでは絶対に泣かないって自分に言い聞かせてきたのに。」


「僕も、足の指が大きいのを悩んで、泣くことがあるよ。くまのぬいぐるみを抱いてね。だけど、いっこうに指は小さくならないんだ。
自分の鼻が大きいのを悩んで泣く夜もあるよ、そんな時は、象のぬいぐるみを抱いて泣くんだ。」


「…こんな慰められ方、初めてです。」


「首用に、キリンのぬいぐるみもあるんだ。」


やっと、彼女の顔に笑みが戻った。



「でも、今日はありがとうございました。あの声が聞こえなかったら、どうしていいか解らなかったと思います。」


「僕の声?」


「はい。」


「たいした、声じゃないけどね。」


「でも、また困った時は、お願いします。」


「お互い様さ。」


「じゃ、おやすみなさい。」


「おやすみ。」



彼女の能力や普段の態度からは、とても想像できない悲しさが、彼女の笑顔の裏に隠されていることを僕は忘れていた……。


(上へつづく)

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