力強く、時に軽やかに。
モーツァルトの曲が、昼下がりの町に流れる。
私はスイスで生まれ、日本にやってきた。
終戦間もない日本。
ピアノはまだまだ一般家庭にとって、高嶺の花の時代。
私は、神戸の高台で、モーツァルトを奏でる、平和なピアノだった。
譜面を風がめくり、花瓶の花が私の音に震え、女が一身に私を弾いている。
毎日2時間、私の体は鳴り響き、幸せな人生をピアノとして過ごしていた。
神戸での幸せな日々は、そう長く続かなかった。
神戸での2度目の冬。
朝になったら、家族が消えていた。
見知らぬ人が私を値踏みをして、「これは競売に出す」と言った。
もう、あの女の指に触れることも二度とないことが、ピアノである私にもわかった。
私は売られていく。
そこにも平和な時間が流れていればいいのだけれど。
タバコの煙が立ちこもるジャズ・バー。
隣でベースが鳴り、向こうでドラムが響く。
銀のドレスを着た女が歌を歌っている。
私を弾くのは40歳過ぎの男。
軽いタッチで、流れるように私の上を行き来する指。
男女のおしゃべりと、食器が触れ合う音。
そこが、私の2番目のすみかだった。
朝の4時には、私一人になる。
神戸の風景を時折、暗闇の中で思い出す。
東京のジャズ・バー。
静寂な時間は一日にほとんどない。
ここでは生活が競争だ。
始発電車とともに、都会は目覚める。
サイレンとクラクション。
季節の無いバーの中では、私はピアノとしか生きていけない。
話しかけてくるのは、一人の老人だけ。
1日の終わりに、私についたタバコのヤニを拭いてくれる。
バーテンダーをやっている彼は、左の小指が第二関節から無い。
時代は冷酷で、流行遅れの芸人はあっという間に消える運命。
その中で、このバーは往年のスターを身近で楽しめた。
季節を感じることができなくても、幸せなのかもしれない。
円熟した芸人の歌にあわせて、私も歌うことができるのだから。
タバコの煙にも都会の喧騒にも慣れた。
私には都会のほうが合うのかもしれない。
もう、神戸のことを思い出すことも、あまりない。
私が奏でる音楽も変わった。
ショパンでもモーツアルトでもなく、ジャズのスタンダードやポップスばかりになった。
年老いたバーテンダーは来年には、ここを去って、生まれ故郷で老後を過ごすと言っていた。
きっと、新しい男の人が私を磨いてくれることになるのだろう、そう思っていた。
ある日、一流だけど高齢のミュージシャンが私の前で倒れた。
私を弾いている最中に、突然、鍵盤に肘を打ち付け、そのままステージへ体を崩していった。
脳溢血で、そのミュージシャンは二度と意識を戻さなかった。
私の上をいろんな人生が通り過ぎてゆく。
街の風景すら、私は思い出さなくなってしまったというのに。
神戸を離れた時と同じように、今回も、それは突然やってきた。
ジャズ・バーのオーナーが負債を抱え、このバーを手放すことになった。
新しいオーナーは、ここは古臭いジャズよりも、若者向けのアウトレットのほうが向いていると判断した。
そして、アウトレットにはピアノは不似合いであることも、同時に(そして瞬時に)判断した。
ビジネスが上手い新オーナーは私を法外な値段で北海道にある公共ホールに売りつけた。
私を待っているのが暖かい拍手ならいいのだけれども。
小さな北の町。
私は月に一度ある「ピアノ教室発表会」で、子どもたちと一緒に音楽を楽しむ。
調律は半年に一度になったけれど、ここにはタバコもアルコールもない。
夜は大きなホールのすぐ脇にある楽屋に置かれた。
音がしない建物で一人で暮らすのも悪くない。暗闇さえ怖くなかったら。
子どもたちは緊張した顔で私に向かい、汗ばむ指で私の鍵盤を弾いた。
それは、私の励みになった。
子どもたちというものは、常に不安にかられ、将来を悲観するものだが、決して成長を止めるものじゃない。
伸び盛りの人間とともに過ごす時間は、私を安心させた。
老齢のジャズ・ミュージシャンとばかり時間を過ごしてきたせいだろうか。
ある日、私の住む音楽ホールが火事になった。
浮浪者が北海道の厳冬に耐えかねて、暖をとるつもりだったのかもしれない。
煤にまみれた私は、お払い箱になった。
無用となったピアノがどういう運命になるのか私は知らない。
このまま焼却されるのがおちかな、と私は諦めていた。
神戸の街から東京の雑踏へ、そして北海道。
もう、これで私も十分だ。
暖かい家庭を見た。
円熟したジャズシンガーの魅力も知り尽くした。
伸び盛りの子どもの才能を驚嘆した。
これ以上、私のピアノ人生に何を望むというのだろう。
十分だ。
最後は煤にまみれたが、私は私を演じきったのだから。
諦めかけていた私の人生だったけれど、私はまだもう少し生き延びることになった。
コスタリカの小学校へ行くことになった。
こんな古ぼけた私でも、コスタリカでは貴重なピアノとして行く。
私は自分の運命に決して逆らおうとはしないが、それでも待ち受けている人がいることに感謝した。
もう、これから1年に1回も調律されないかもしれないけれど、私を喜んでくれる人がいると思うと、生きていく希望が湧いてくる。
神戸も東京も北海道でも誰かが私を支えてくれた。
今度は私が支える番だわ。
音程が狂ったとしても、きっと私のメロディに誰かが心を満たしてくれるはず。
たとえ、誰もそんな人がいなかったとしても、ピアノは、存在しているだけでもピアノよ。
私は日本をあとにして、船に乗った。
夕暮れが迫る崩れかけた教室。
窓から夕日が入る。
熱帯の風もひんやりとしてくる。
誰もいない小さな教室。
そこへ足音が忍び寄る。
廊下から教室に入ってくる小さな足音。
赤い小さな布切れに身を包んだ少女。
周りに誰もいないことを確認する。
そっと忍び足で、私に近づく。
今朝、先生が「日本」という東の小さな国から届いた「ピアノ」という楽器を紹介してくれたのだ。
先生が弾いてくれたピアノの音は、少女がこれまで聞いてきた、どんな音とも違っていた。
少女の心がピアノの音に共鳴したのだ。
少女はピアノの前に立ち、もう一度、周りを確認した。
そして、そっと鍵盤の蓋を持ち上げる。
白い鍵盤と黒い鍵盤が並んでいた。
その配列が、少女の何かをくすぐった。
恐る恐る、右腕を伸ばし、人差し指で鍵盤をそっと押す。
「天国の天使が鳴らす楽器だわ」
少女はひとみを輝かしながら、そう思った。
少女は満足すると、蓋をした。
「明日から、この天使の楽器を毎日触ろう。そうだ!先生にピアノの弾き方を習おう!」
少女は満足すると、駆け足で家族が待つ小さな家に向かって駆けて行った。
(終わり)
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