海へ向かう船が見える。
緑と青でライトアップされたホテル。
その夜景の前に座っている彼女。
「ここのパスタ、おいしいわね。ピザも。」
「うん。少し風が寒いけれど。味は悪くない。」
ビル・エバンスのピアノが流れる空間と時間を二人で共有する。
「手術は何時から?」
「10時。」
「OK。その時間に私はあなたのほうへ向かって、祈りの言葉を送ってるわね。」
「ありがとう。」
「どれくらいかかるの?」
「オペ自体は1時間もあれば終わるよ。」
「人工声帯はすぐにつけるの?」
「それは、一年後くらいにね。まずは、癌細胞を叩くことに専念しないといけない。」
「そう。」
暗い照明の中で、彼女の瞳が僕を見据える。
「薬は?」
「飲むよ。」
「副作用はあるの?」
「うん、一般的な抗癌剤の副作用がね。毛髪が抜けたり、吐き気とか、下痢とかね。それは薬を使い始めてからでないと分からない。」
「でも、あなたは薬の専門家だから、いいわね。お医者さんに薬の指示を出したらいいんじゃない?」
「そうだね。僕は薬剤師だからね。」
「そうよ。薬に関してはお医者さんより詳しいんでしょ。」
話しながら、彼女の目から涙が流れ、港の光に反射して頬を伝わっていた。
口元に笑みを浮かべながら、彼女は僕を見つめる。
「携帯メールは打てるからいいわよね。」
「病室からは打てないけれど、散歩がてらに病院の外に出て送るよ。」
「どれくらい入院しているの?」
「多分、1ヶ月くらいかな。しばらくは点滴で、それから流動食だ。」
「じゃ、今日は沢山食べて。まだ他にも頼む?」
「地中海風リゾット。」
料理と音楽と夜景と彼女。
時間が一秒ごとに使われてゆく。
「抗生物質も使うの?」
「うん、オペのあとは必ず使うよ。感染病にならないようにね。」
いつもより、おしゃべりな彼女。
----- *** -----
料理が喉を通らない。
テーブルに来たリゾットを彼のお皿に取る。
今日だけは沈黙が怖かった。
彼が「最後の言葉」を言い出すのが怖いから。
私は話し続ける。
彼に質問し続ける。
それにいつものように答えるあの人。
時間が私の心の中で壊れてゆく。
食事が終り、レストランを出る。
海からの冷たい風が、私の涙を乾かしてゆく。
「今日は改札まで送らないわ。そこの公園のところで見送る。」
海の波間に映る街の明り。 海から戻ってくる船。
彼の逞しい腕が、私を覆い尽くす。
抱きしめる彼の体。
汽笛が夜空に響く。
唇を離すと、彼が語りかけてきた。
「今日までありがとう。」
うなずく。 涙が意志とは関係なく流れ出す。
「退院したら、また逢いに来るよ。」
「私のこと、忘れたら承知しないからね。」
「もちろんさ。また、来るよ。メールも送る。」
「指を骨折しないでね。」
「そうだね。……今日は楽しかったよ。じゃ、またね。」
「うん。」
彼が私の体を離し、目を見つめる。
「愛しているよ。いつまでも。」
彼は、そう言うと笑顔で駅へ向かった。
私は彼の言葉を抱きしめながら、見送る。
私は彼の言葉を繰り返し、頭に思い浮かべながら、ここで彼が迎えに来る日を待つ。
携帯電話を持って。
おわり