仕事も同僚との付き合いも、今まで通りと同じだった。
僕の病気を知っているのは、携帯の電波の先にいる彼女だけ。
彼女は、今までと同じように明るいメールを送ってくれる。
『月と太陽と4月の風。あなたが好きなのはどれ?』
『優しい月の光』
『私も月は好き。でも、明るい太陽の下も好き』
『僕は夏から秋にかけての季節の変わり目も好きだな』
『春よ!絶対に。これから!という感じでしょ?』
……。
いつもの会話が、僕の心を和ませる。
僕の体内で、今でも我が物顔で増殖し、自分の分身を僕の体中に、ばら撒こうと機会を伺っている癌細胞。
笑いは免疫力を高める。
病気は、自分との戦いだということを痛感した。
精神的に参ってしまっては、肉体も負けてしまう。
少なくとも、彼女とのメールでは、病気の話しは二度と出なかった。
毎日、眠る前には癌細胞が消失していくイメージを頭に描きながら眠りについた。
それは間違い無く、生きる目的を考えさせ、自覚させる時間でもあった。
何故、そこまでして病気と戦うのか?
「死」が怖いからだけなのか。
そうではない。
僕の肉体がこの世界から消えたら、逢えなくなる人がいるからだ。
意識の消失で、その人の笑顔が見えなくなる、声が聞けなくなる、言葉のやりとりが出来なくなる。
耐え難い孤独が永遠と続く……。
何故、こんな単純なことに気がつかなかったんだろう。
僕は、その人のために病気と戦う。
ファイバーを使っての癌の切除。
今朝、手術の説明を医師から聞いた。
ファイバーを口から入れ、癌をかきとる。局部麻酔で済むとのこと。
今日のお昼から食事は無し、点滴だけでエネルギーを維持する。
明日の朝9時から手術を行う。
朝が過ぎ、お昼が過ぎ、そして、暗い病室で一人、明日の朝からの手術を思い浮かべ夜を過ごす。
漆黒の闇。
廊下を歩く看護婦の足音。
遠くで聴こえる街の喧騒。酔っ払いの叫び声と女性の笑い声。
じっと明日の朝を待つ。自分の心臓の音だけが聞こえる深夜。
入院病棟は携帯メールも禁止されていた。
夜10時。携帯を持って外来受付けまで行く。
そして彼女からのメールを受信する。
『今度は何処に行きたい?』
『水の見えるところがいいな』
『海?川?湖?』
『海だね、断然』
『了解。じゃ明日までに作戦を練っておくわ。また明日。オヤスミ』
『うん、また明日ね。オヤスミ』
携帯を切り、病室へ戻る。
孤独が支配する闇と冷たいベッドだけが僕を待っていた。
そして、明日を迎える。明日の夕方にはまた携帯が使える。その時に送る携帯メールの文面を考えて眠りにつく。
彼女の存在だけが、僕に生命の炎を燃え立たせる。
(上へつづく)