2010年09月23日

携帯メール(1)

      (1)

晩秋の東京では落ち葉がゴミと認識される。
僕はそのゴミの上を歩いていた。 道路に降り積もった公孫樹の葉の上を。
今夜は流星を沢山見ることができると街を行く人たちが話している。
空を見上げてみたが、街の明りでシリウスさえやっと見える程度だ。
都会には夜空が必要無いとでも言うように、ビルの窓から、飲み屋の看板から、クリスマスのイルミネーションから光が夜空へ放たれていた。

胸ポケットで携帯が3回震えて止まった。

『調子はどう?検査の結果は?』

短い文章は彼女が自由にメールを打てる時間を見つけ、必要最低限のことだけを伝えてくれるからだ。
遠い街から流星が降る夜空を飛んで、東京の片隅まで届く彼女からの言葉が僕の生命を支えていた。

『検査の結果は胃がんの初期。来月切除予定』

僕も簡単に携帯のボタンを押して返信する。
人間の命について、ポケットに入る機械のボタンで伝えられる時代に僕は生きていた。



吐血してから2週間。
僕の胃に悪魔が住みついていた。

胃カメラを覗いていた医師が僕に言った。
「あなたはラッキーだ。幸運だった。」
喉からファイバーを突っ込まれている僕は、目に涙を浮かべ、さっきからこみ上げてくる吐き気と戦うのが精一杯だった。
何故、幸運なのか、それは正式に検査の結果が出た今日、知らされた。

「出血の原因は胃潰瘍でしたが、胃がんも見つかりました。」
「……。」
「製薬会社にお勤めですね? しかも抗癌剤を出している。うちの病院でも使ってますよ。」
「……。」 ほんの数分前と違う、別次元の世界に飛び込んだような錯覚を憶える。
「MRですか?」
それは僕に向けられた質問のようだった。ほかに誰もいない。
「臨床開発を……」 他人が答えているような声が、診察室を反響して耳に届く。
「だったら、話しは早い。」
医師は、カルテを僕に見せた。
「あとで写真も見せますが、ここに I 期の胃がんがあります。で、ここに胃潰瘍が別にあります。今回の吐血の原因は胃潰瘍でした。」
カルテに書かれた胃の絵に流れるような矢印が書いてあり、その矢印は胃底を指していた。
そして、矢印の出発点には「tumor」の文字。
間違い無く、癌だった。

「吐血が無かったら見つからないような、ごく初期の胃がんです。 簡単に切除して取れます。癌種はその癌組織をとってから調べます。」
仕事で理解していることが、自分の世界に入ってくると、それはまるで他人のようだ。
淡々と事務的に説明する医師。
「これが、あなたの胃です。」と医師は鮮明な写真を見せてくれた。
「ここが出血のあとです。これは胃潰瘍。そして、ここが見つかった胃がんです。」

明るい光が診察室の窓から指し込んできた。
その診察室内を事務的に働き回る看護婦。

清潔感漂う、その看護婦の白衣が太陽の光を跳ね返していた。





検査結果をメールで送って、街を彷徨っていた。
携帯電話が震えた。
今度は3回で止まらない。
画面には彼女の名前が出ていた。



「大丈夫?」
彼女の声は、いつでも僕の気持ちを暖かくさせる。
「きみこそ、今は電話大丈夫なの? 彼は?」
「今日は残業で遅いの。本当に胃がんなの?」
「うん。でも初期の胃がんだから。癌の種類にもよるけれど、取ってしまえば5年以上の生存率は90%以上さ。」
「……。」
携帯の向こうから、息を吸い込む音がする。
「来月、また口からファイバーを入れて、ちょこっと癌を取れば終りさ。」
「……。」
無音が夜の向こうから伝わってくる。

やがて、無言の携帯の向こうからは、彼女の嗚咽の音が聞こえてきた。

クールで、いつも冷静な彼女。
自分を出すことに敏感で、いつも斜に構えるふうを装っている彼女。
その彼女の涙の落ちる音が携帯の向こうから聞こえてくるようだ。
それは、僕の心も動揺させた。

「大丈夫さ。多分、転移もしてないだろうし。 I 期という初期だよ。幸運すぎる早期発見だ。」
彼女は声を殺しながら、涙を落としているようだ。
鼻をすする音が晩秋の冷たい空気を震わせて、僕の耳に届く。

僕は、自分の知識を総動員して、医師と話しをしたこと、その結果、癌組織さえ取り除けば問題無いことを彼女に伝えた。
彼女に説明しているうちに、それは自分のことではなく、治験に参加してもらった被験者さんのことのように思えてきた。
そのことで、僕自身は落着いてきたが、彼女には効果が無かった。

普段のメールのやりとりでは知りえない彼女の痛みが伝わってくる。
「食事は摂った? 彼の食事の準備も済んだ?」
できるだけ、現実の場に彼女を持っていこうとした。
その僕の試みは、逆効果だった。
彼女は、声を出して泣き始めた。

僕は街の小さな公園に入り、ベンチに座った。
こんな所に公園が有るなんて誰も知らない、置き忘られた公園のベンチで、枯れ葉を散らす公孫樹を見上げた。
そこには広い夜空が広がっていた。
枝の向こうにオリオンが光っている。
地球は何事も無かったように、いつもの速さで自転しているようだ。

「ごめん。もう大丈夫。」 鼻を大きくすする音がしてから、彼女はそう言った。
「びっくりしたよ。」
「びっくりしたのは、こっちよ。」
「まぁ、そう言うわけで大丈夫だからさ。心配しないで。」
「ごめんね。かえってあなたを心配させたようで。 もう二度と泣かないわ。」
「うん。」
いつもは強気の彼女は静かにため息をつくと、これから私が貴方のために神様にお祈りしてあげるから大丈夫よ、と言って携帯を切った。

僕はベンチで煙草に火をつけ、オリオン座に向けて煙を吐いた。
僕の命が煙草の煙と一緒に、公孫樹が伸びる夜空に向かって流れていった。
煙を見ながら、胃壁に出来た小さなポリープを思い出し、悪態をついた。
その悪態はビルの壁に跳ね返り、僕のところに戻ってきた。それは悪魔の声に変わっていた。



丁度、今から一年前の秋、僕はある病院に治験を依頼しており、婦人科にモニターとして1ヶ月に一度はその病院に通っていた。
医師とのアポは大抵が時間通りには行かない。
その日も、急遽、オペが入り、僕は1時間ほど待たさることになった。
婦人科の前で待つのは、なにかと落着かないので、僕は総合外来のソファーで本を読みながら時間を潰していた。


「落ちましたよ。」 気が着くと僕は居眠りをしていた。目を開けると栞を僕に渡す女性が立っている。
「ありがとうございます。」
彼女は僕に微笑みと栞を渡すと、隣のソファーに座り、本を広げた。
その本は、僕が今、読んでいる本だった。

「風の歌を聴け」

これまで何回、読み返したことだろう。
ページがぼろぼろになっては、買い替え、そしていつもポケットに入れて持ち歩いている本。
作者の生まれた街まで、行ったことがある。
大学卒業前に行っておきたくて、ただ同じ風景を見たくて、一度だけ行った
港の見える街。そして山。
僕の誕生日に大きな地震で崩壊しかかった街。
いつか、もう一度行きたい街。

彼女の読んでいる本も、カバーの角が切れかかっている。

「その本が好きなようですね。」
「えっ?」
「僕と同じだ」と言って、持っていた7代目の「風の歌を聴け」を見せた。
「そうですね。……私達、同じですね。」

笑顔が光の中に生まれた。

(上へつづく)


posted by ホーライ at 21:41| Comment(0) | 携帯メール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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