2010年09月23日

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「違うわ!!」

彼女は、麦茶の入ったコップを落として立ち上がり、僕を見下ろした。

「それは絶対に違う! あなたのお母さんのせいなんかじゃない!!

あなたのお母さんは、ただ眠れなくて、お医者さんから出された薬を信じて飲んだだけ!

誰だって、苦しい時には薬に頼るし、まさか、薬でこんなことになるなんて誰も思わないわよ!!」



彼女の目から涙が溢れていた。

白い日傘が僕の膝に飛んできた。紙コップを握り締めて僕を見下ろす彼女。蝉が鳴いている。僕の地中の7年間。

死んだおふくろを許せぬまま過ごした7年間。いつも誰かを怨むことで、自分を慰め、消耗しつづけた7年間。

「あなたにお母さんの気持ちなんて分かりっこないのよ!

どんなにお母さんが自分を責めて、苦しんだことか分からないの?

どんな母親だって、自分の子供を苦しめるために産むんじゃないのよ。

幸福な人生を夢みて、産まれてくる子供を待ち望んでいたはず……」

僕は、彼女から借りたタオルを差し出した。

彼女はタオルを受け取ると顔に押し当て、ベンチに座り、顔を埋めた。

日差しが、傾いてきた。僕は麦茶を飲んだ。

「おふくろが、どんな思いで薬を飲んだのか分かる。あの人はもともと不眠症気味だった。

僕を産んだ後はますます、その不眠症が進んだんだ。カウンセリングなんて言葉がなかった時代に、おふくろは苦しんでいた。

そして、僕に車椅子の動かし方を教え、僕をできるだけ、いろんなところに連れていってくれた。

おやじもね、苦しんでいたとは思う。

そのデータを貸してもらえるかな? ゆっくり見てみたい。」



タオルから顔を上げた彼女は、微笑むと赤い目を僕にむけた。

「汗くさい。あはは、汗くさいわ、このタオル。 いいですよ、データを持っていって。はい。」

数字だけの、とても理解できそうもないデータを受け取り、僕も笑った。

彼女は僕の膝に飛んできた日傘と落とした紙コップを拾い、話しを続けた。

「ごめんなさい。本当にお母さんの気持ちも、おとうさんの気持ちも、あなたの気持ちも知らないのは、私ね。」

「傘まで飛ばして僕のおふくろを弁護したのは、きみが始めてだよ。」

「あははは、どうもすいません。ねぇ、軽井沢のレースに応援に行っても、いいですか?」

「別に、僕の許可なんて必要ない。」

「そうか。あっ、ここのマネージャーを募集しているのは、本当なんですね。受付のところに募集広告が出ていました!」

「うん、地味な仕事なんで、あまりなり手がいないんだ。」

「ひょっとして、あのコーチとも一緒に働けるかな?」

「もちろん。」

「ちょっと待っていてください。今、申し込んできます。コンタクトレンズもずれたみたいなので、それも直してきます。

ちょっと、時間がかかるけれど、待っていてくださいね。」

そう言うと、彼女は頬の涙を手の甲で拭い、日傘を置き、スポーツセンターに小走りに向かっていった。

行動力のある彼女……。

ベンチの上に置いてあるサーティンワンの袋に蟻が歩いていた。おまえ達も、暑いのにご苦労だな。

僕の頭に響く、彼女の言葉「お母さんのせいじゃない!!」。分かっているさ。おふくろのせいじゃない。

製薬会社のせい? 研究者の怠慢?  それで、この結果?  ふ〜ん、たいしたもんだ。 僕の36年間。昔の恋人。

蒼い海、プールサイドの歓声、ひとりで迎えた朝、悔しさで眠れぬ夜、誰からも愛されない恐怖、左手首の傷……。

動物実験? 催奇形成試験?  データ?  確率?  だから?  それで?  ……。握りこぶしを車椅子に叩きつける。

この痛みをどこに向ければいい?

「大丈夫?」

額に汗を浮かべた彼女が、僕を見下ろしていた。

「……大丈夫さ。マネージャーの口はまだ空いていた?」

「ええ。来週の日曜日から来ます。できるだけ、毎週来ますね。軽井沢のレースまであと1ヵ月ですもんね。 頑張らなくちゃ!」

「君の好きにすればいいよ。」

「そうします。ところで夏休みは?」

「今度の水曜日から次の日曜日まで。」

「ふ〜ん、水曜日か。水曜日に海に行きませんか?」

この娘は、僕の言うことなんか聞いていない。

「無理。」

「どーして?」

「来週の日曜日に、また。今度、来る時には軍手を忘れないように。麦茶おいしかった、ありがとう。」

彼女を置いて、歩道橋へ向かう。後ろから、彼女の足音。すぐに僕の車椅子の脇に並ぶ。

「どーして、無理なんですか?」

僕は黙って、歩道橋の上り坂を車椅子で登る。彼女が、車椅子の後ろにまわり、僕を押す。

「ありがとう、でも、大丈夫。これも練習だから。」

「あっ、そうか。」

黙って、歩く彼女。真っ直ぐ前を向いて歩く。僕は車輪を回しながら聞いた。

「何かのクラブのマネージャーをやったことは?」

「無いんです。私って、あまり器用じゃないんですよね。思い付くとすぐに行動に移すし、それでいて、いつもとんでもないドジをするし。マネージャーが勤まるかしら?」

「Patience。」

「忍耐? う〜ん、難しいかな。」

「だったら、海はもっと難しい。」

歩道橋の上り坂を登り、息を整える。下り坂が僕は苦手だ。いつも、歩道橋のちょど真ん中で止まり、心の準備をする。

車椅子は下り坂でもブレーキが利くようになっていたが、遠い記憶が僕を恐怖に陥れる。

レースでも僕は下り坂で、いつも抜かれてしまう。

「大丈夫ですか?」

「ちょっと呼吸を整えている。」

「そうですよね。この歩道橋の上り坂は、私でも結構きついです。

へー、ここからきれいに富士山が見えるんだ。

ワンボックスカーをレンタルすれば、いいですよね?」

「え?」

「海に行くときに、そのほうが乗り降りが楽でしょ?」

僕は答えずに、下り坂に向かった。

スピードを殺さないように、バランスに気を付ける。

まず、最初のスロープ。7mの下り坂。そこで、Uターンのカーブ。カーブで僕の心が萎縮すると、転倒する。

スピードを怖れずに立ち向かい、車椅子を完全にコントロールすればよい。

カーブを曲り、残り7mの下り坂。今日はうまくいった。

日傘をしまい、僕に遅れまいと懸命に走ってくる彼女。

「凄い! 凄いスピードで降りるんですね。怖くないですか?」

「別に。」

「私も海に行きたいの。」

「一人で行けばいい。でなかったら、僕以外とでも。」

「あなたも行きたいって、あんなに日記に書いていたじゃない?」

「無理。」

「どうして? どうして、そう決めつけるの?」

僕は、車椅子を止めた。彼女も止まって、僕を見下ろす。僕はため息をひとつ、つく。

「今までも、ずっとそう。大変なんだよ。」

「今までは、そうだったかもしれない。でも、こらからは違うかもしれないでしょ?」

「それも、きみがあの会社に勤めているから? それも罪滅ぼしなの?  会社に加担したくないから?」

「……。」

黙って、僕を見つめる。

「ごめん。でも、とにかく思っているよりも大変なんだよ。」

「やってみないと分からないから。私は、想像力がないの。どんなに大変かやってみないと、私には分からないの。」

「みんな、今までの人たちも、それで別れたんだ。」

「私は、あなたの昔の恋人でもないし、それに、今の恋人でもないわ。今のところ……」

頑固な性格。

「頑固なんだ。」

「あなたもね。」

「……。そう、そうだね。じゃ、あとでメールで連絡するよ。」

「やった!」

やれやれ。

「エンヤの Only Time が好きです。 あとね、イタリアが好きなの。」

彼女の優しい目が輝いている。笑顔がかわいい。

蝉の声が一層、大きくなった気がした。僕の7年間。



(上へつづく)


posted by ホーライ at 21:31| Comment(0) | e-mail | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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