「違うわ!!」
彼女は、麦茶の入ったコップを落として立ち上がり、僕を見下ろした。
「それは絶対に違う! あなたのお母さんのせいなんかじゃない!!
あなたのお母さんは、ただ眠れなくて、お医者さんから出された薬を信じて飲んだだけ!
誰だって、苦しい時には薬に頼るし、まさか、薬でこんなことになるなんて誰も思わないわよ!!」
彼女の目から涙が溢れていた。
白い日傘が僕の膝に飛んできた。紙コップを握り締めて僕を見下ろす彼女。蝉が鳴いている。僕の地中の7年間。
死んだおふくろを許せぬまま過ごした7年間。いつも誰かを怨むことで、自分を慰め、消耗しつづけた7年間。
「あなたにお母さんの気持ちなんて分かりっこないのよ!
どんなにお母さんが自分を責めて、苦しんだことか分からないの?
どんな母親だって、自分の子供を苦しめるために産むんじゃないのよ。
幸福な人生を夢みて、産まれてくる子供を待ち望んでいたはず……」
僕は、彼女から借りたタオルを差し出した。
彼女はタオルを受け取ると顔に押し当て、ベンチに座り、顔を埋めた。
日差しが、傾いてきた。僕は麦茶を飲んだ。
「おふくろが、どんな思いで薬を飲んだのか分かる。あの人はもともと不眠症気味だった。
僕を産んだ後はますます、その不眠症が進んだんだ。カウンセリングなんて言葉がなかった時代に、おふくろは苦しんでいた。
そして、僕に車椅子の動かし方を教え、僕をできるだけ、いろんなところに連れていってくれた。
おやじもね、苦しんでいたとは思う。
そのデータを貸してもらえるかな? ゆっくり見てみたい。」
タオルから顔を上げた彼女は、微笑むと赤い目を僕にむけた。
「汗くさい。あはは、汗くさいわ、このタオル。 いいですよ、データを持っていって。はい。」
数字だけの、とても理解できそうもないデータを受け取り、僕も笑った。
彼女は僕の膝に飛んできた日傘と落とした紙コップを拾い、話しを続けた。
「ごめんなさい。本当にお母さんの気持ちも、おとうさんの気持ちも、あなたの気持ちも知らないのは、私ね。」
「傘まで飛ばして僕のおふくろを弁護したのは、きみが始めてだよ。」
「あははは、どうもすいません。ねぇ、軽井沢のレースに応援に行っても、いいですか?」
「別に、僕の許可なんて必要ない。」
「そうか。あっ、ここのマネージャーを募集しているのは、本当なんですね。受付のところに募集広告が出ていました!」
「うん、地味な仕事なんで、あまりなり手がいないんだ。」
「ひょっとして、あのコーチとも一緒に働けるかな?」
「もちろん。」
「ちょっと待っていてください。今、申し込んできます。コンタクトレンズもずれたみたいなので、それも直してきます。
ちょっと、時間がかかるけれど、待っていてくださいね。」
そう言うと、彼女は頬の涙を手の甲で拭い、日傘を置き、スポーツセンターに小走りに向かっていった。
行動力のある彼女……。
ベンチの上に置いてあるサーティンワンの袋に蟻が歩いていた。おまえ達も、暑いのにご苦労だな。
僕の頭に響く、彼女の言葉「お母さんのせいじゃない!!」。分かっているさ。おふくろのせいじゃない。
製薬会社のせい? 研究者の怠慢? それで、この結果? ふ〜ん、たいしたもんだ。 僕の36年間。昔の恋人。
蒼い海、プールサイドの歓声、ひとりで迎えた朝、悔しさで眠れぬ夜、誰からも愛されない恐怖、左手首の傷……。
動物実験? 催奇形成試験? データ? 確率? だから? それで? ……。握りこぶしを車椅子に叩きつける。
この痛みをどこに向ければいい?
「大丈夫?」
額に汗を浮かべた彼女が、僕を見下ろしていた。
「……大丈夫さ。マネージャーの口はまだ空いていた?」
「ええ。来週の日曜日から来ます。できるだけ、毎週来ますね。軽井沢のレースまであと1ヵ月ですもんね。 頑張らなくちゃ!」
「君の好きにすればいいよ。」
「そうします。ところで夏休みは?」
「今度の水曜日から次の日曜日まで。」
「ふ〜ん、水曜日か。水曜日に海に行きませんか?」
この娘は、僕の言うことなんか聞いていない。
「無理。」
「どーして?」
「来週の日曜日に、また。今度、来る時には軍手を忘れないように。麦茶おいしかった、ありがとう。」
彼女を置いて、歩道橋へ向かう。後ろから、彼女の足音。すぐに僕の車椅子の脇に並ぶ。
「どーして、無理なんですか?」
僕は黙って、歩道橋の上り坂を車椅子で登る。彼女が、車椅子の後ろにまわり、僕を押す。
「ありがとう、でも、大丈夫。これも練習だから。」
「あっ、そうか。」
黙って、歩く彼女。真っ直ぐ前を向いて歩く。僕は車輪を回しながら聞いた。
「何かのクラブのマネージャーをやったことは?」
「無いんです。私って、あまり器用じゃないんですよね。思い付くとすぐに行動に移すし、それでいて、いつもとんでもないドジをするし。マネージャーが勤まるかしら?」
「Patience。」
「忍耐? う〜ん、難しいかな。」
「だったら、海はもっと難しい。」
歩道橋の上り坂を登り、息を整える。下り坂が僕は苦手だ。いつも、歩道橋のちょど真ん中で止まり、心の準備をする。
車椅子は下り坂でもブレーキが利くようになっていたが、遠い記憶が僕を恐怖に陥れる。
レースでも僕は下り坂で、いつも抜かれてしまう。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと呼吸を整えている。」
「そうですよね。この歩道橋の上り坂は、私でも結構きついです。
へー、ここからきれいに富士山が見えるんだ。
ワンボックスカーをレンタルすれば、いいですよね?」
「え?」
「海に行くときに、そのほうが乗り降りが楽でしょ?」
僕は答えずに、下り坂に向かった。
スピードを殺さないように、バランスに気を付ける。
まず、最初のスロープ。7mの下り坂。そこで、Uターンのカーブ。カーブで僕の心が萎縮すると、転倒する。
スピードを怖れずに立ち向かい、車椅子を完全にコントロールすればよい。
カーブを曲り、残り7mの下り坂。今日はうまくいった。
日傘をしまい、僕に遅れまいと懸命に走ってくる彼女。
「凄い! 凄いスピードで降りるんですね。怖くないですか?」
「別に。」
「私も海に行きたいの。」
「一人で行けばいい。でなかったら、僕以外とでも。」
「あなたも行きたいって、あんなに日記に書いていたじゃない?」
「無理。」
「どうして? どうして、そう決めつけるの?」
僕は、車椅子を止めた。彼女も止まって、僕を見下ろす。僕はため息をひとつ、つく。
「今までも、ずっとそう。大変なんだよ。」
「今までは、そうだったかもしれない。でも、こらからは違うかもしれないでしょ?」
「それも、きみがあの会社に勤めているから? それも罪滅ぼしなの? 会社に加担したくないから?」
「……。」
黙って、僕を見つめる。
「ごめん。でも、とにかく思っているよりも大変なんだよ。」
「やってみないと分からないから。私は、想像力がないの。どんなに大変かやってみないと、私には分からないの。」
「みんな、今までの人たちも、それで別れたんだ。」
「私は、あなたの昔の恋人でもないし、それに、今の恋人でもないわ。今のところ……」
頑固な性格。
「頑固なんだ。」
「あなたもね。」
「……。そう、そうだね。じゃ、あとでメールで連絡するよ。」
「やった!」
やれやれ。
「エンヤの Only Time が好きです。 あとね、イタリアが好きなの。」
彼女の優しい目が輝いている。笑顔がかわいい。
蝉の声が一層、大きくなった気がした。僕の7年間。
(上へつづく)