夏になると、僕は泳ぎたくなる。でも、夏の海とプールは僕には縁のない話しだった。
エネルギーを発散するために、僕はロードレースを選んだ。
北海道で毎年開催される「サロマ湖車椅子100kmロードレース」が目標だ。
去年は50Kmに出場した。そのレースでは、左手の故障と手のひらの「まめ」に泣かされた。
腕力をつける、これが今季の課題だ。
特に左手。
左手の親指と人差し指に力が入らない。昔、手首を切った後遺症だった。
手術で腱を繋いだが、今だにつっぱり、二本の指が思うように動かない。
キーボードを叩きすぎるとすぐに指が動かなくなる。
今年から、ベンチプレスを増強した。週一のコース練習でも、上半身をバランス良く体重移動に使うよう心がけた。
流れる汗だけが、僕の自己満足だ。誰の助けも要らないし、誰かに助けられるのが嫌いだ。
レース仲間とも、滅多に口をきかない。僕は心を閉ざす。おあいそ笑いが煩わしい。
日記。
“ 今日は車椅子で40Kmを走破したよ。
今年の夏は、軽井沢で80Kmに挑戦するんだ。
そして、秋には北海道で100Kmだ。サロマ湖の周りを100Km! これが僕の夢。
いつもは、東京の西にある障害者スポーツセンターで練習している。最高に美人のコーチがいるんだ。ふふん♪
昔の映画でランナーが海岸を走る場面が有ったね。イギリスの映画でさ。題名は忘れたけれど、音楽が良かった。
コーチは、あの音楽が好きでね、いつもプレーヤーから流しながら練習を見ているんだ。
最高だよ。 ”
彼女からのメール。
「“マイサリ”の影響は、特に妊娠3−5ヵ月で大きく出るというデータがありました。
しかも、それは、販売前から分かっていたようです。
企業秘密かも知れません。マウスのデータですから、すぐに人間にも影響するとは当時は考えなかったのかも知れません。
昨日の映画のタイトルは「炎のランナー」。私は「長距離ランナーの孤独」という小説も好きです。 かしこ 」
企業秘密? マウスのデータ? どうして、そこまでやってくれるのだろう?
僕からのメール。
「いつもメールをありがとう。でも、どうして、そんなに一生懸命調べてくれるの? それに、企業秘密だって?!
大丈夫かい? 繰り返し言うけれどね、僕は本当に、本当に今ではなんとも思ってないんだ、この体のことは。
おふくろのことを悪く言うのは眠れぬ夜だけだよ。だから、そんなに無理をしなくてもいい。
それよりも、きみの好きな映画について、もっと書いて送ってください。では、また。
PS.僕も長距離ランナーの孤独は好きです。」
日記。
“ 昨日の映画のタイトルが判明! 「炎のランナー」だ。う〜ん、そうだったね。懐かしいよ。時計の鐘が鳴り終る前に中庭を1周する場面。
沢山の人から、タイトルを教えてくれるメールを貰った。ありがとう!
暑くなってきたね。僕は水の中には入れないけれど、みんなは、楽しんでいるかい?
海辺でのデートはどうだい? うまくいったかな?
湘南は今日も渋滞だったね。サザン オール スターズが誘う甘い世界に二人で行けたかい?
さー、今日の出来事だ。
アスファルトも溶ける歩道は、車椅子を利用している僕らには「熱波」の源だ。
みんなより、熱波の源に近いところを移動しているんだぞ。
お陰で僕は、今日もイオン補給飲料を飲み続けだ。
手のひらも汗ばんで、火傷しそうだよ。ところで僕がロードレースを選んだのは……”
その日の日記を書くと、僕は「長距離走者の孤独」を読み、炎のランナーのテーマ曲を聴きながら眠りについた。
一人でも寝苦しい暑い夜だった。朝方まで、寝返りばかりをうって眠れなかった。
もし、あの製薬会社がマウスのデータを秘密にしていなかったら、僕の足は普通だったのだろうか?
もし、おふくろが薬を飲まなかったら、今ごろは恋人と海の見えるホテルの部屋で星空を見ていたのだろうか?
波音が耳元に響いてくる。一人で朝を迎えるのが怖い。 一生誰にも愛されないのかも、と思うと泣き出したくなる。
誰も僕を好きにはなってくれない。僕は誰も好きになんかなれない。
(4)
彼女からのメール。
「マウスで障害児が産まれることは、繰り返し実験で確かめられたようです。だから、会社は“確信犯”だと思います。
このデータを公にすれば、きっともっと多くの賠償金が貰えるのではないでしょうか?
私がこのデータをインターネットで公開するというのは、どうでしょう? あっ、これは聞かなかったことにしてもらっても構いません。
あなたをこんなことに巻込むのは良くないですね。
私の好きな俳優はロビン・ウイリアムス。好きな音楽はエンヤ。 好きな食べ物はアイス。乙女座のA型よ。
頑張り屋のあなたなら、水泳もできるのでは? 私は泳げないけれど、応援ならできます。
素敵なコーチにはなれそうもないけれどね。 かしこ」
僕からのメール。
「メール、読みました。マウスの実験の件、驚きました。でも、驚いただけです。
インターネットに公開するのはいいのですが、もし、きみが秘密を漏らしたことが、会社にばれたらまずいでしょう?
賠償金も、僕はそんなに欲しくありません。
賠償金が増えたところで、足は治らない、ね? そうでしょ?
それよりも、きみが困ったことになるほうが心配です。
だから、もし、僕のことを考えてのことだったら、結構です。何度も言うけれどね。
そんなことをやるより、代わりに、どうぞ困っている車椅子の人がいたら声をかけてやってください。では、また。
PS. 水泳は無理です。僕の体にはそんな機能がありません。」
日記。
「僕はいつも赤いヘルメットをかぶって練習してる。
最近は、軽くて丈夫な素材で出来た長距離レース用車椅子が売っているんだ。
それでもってさ、その車椅子が目茶苦茶高いんだよ。こらー! 障害者用の車椅子なんだからもっと安くしろ!!
いくらレース用の特別仕様だと言っても、ちょっと高すぎないか?!
でも、まぁ、しょうがないかな。こんな車椅子を作っている人も全国でたった一人。
需要と供給のバランスから言っても高くなるよね。贅沢の極みだ。
今日の筋肉トレーニングの練習ではベンチプレス50kgを30回。ヒィーヒィーだよ。
コーチはいつもの青いTシャツに、ピンクのジョギングパンツ。 いつものように最高だ!
暑いね。トレーニング室はサウナのようだった。近くの大学のプールでは水泳部が合宿をやっているようだった。
駅の三角屋根が入道雲を背にしてた。夏、真っ盛り……。」
彼女からのメール。
「薬の承認申請には、現在では、催奇形成試験(さいきけいせいしけん と読むのだそうです)のデータを出すことになっているようです。
これは、妊娠中に薬を飲んだ時に奇形児が産まれるかどうかの試験です。
“マイサリ”の頃はこの試験データの提出は義務づけられていなかったとのことです。
ただ、製薬会社では自主的に、この試験をやっていたようね。
その後、いろんな薬で、“マイサリ”のような薬害が有って、このデータの提出が義務づけられたそうです。
どうして、初めから、こうなっていなかったのかしら。
試験データを公開することは、ただ今、考え中。
“マイサリ”のために、あなたのような方が日本に5000人はいらっしゃるのです。
会社では、とにかくこの患者さんたちが、成人するまで毎年賠償金を支払っていました。
でも、皆さん、今は成人になられて、賠償金が支払われていないのでしょ?
もし、賠償金が貰えたら、長距離レース用の車椅子も買えるのではないかしら?
きっと、これも余計なお世話ね。
でも、とにかく、こうしてこの会社でこのまま働いて確信犯の片棒をかつぐのはイヤ。
インターネットで、障害者の方のスポーツやパラリンピックに関連するサイトを見つけました。
下記がそのURLです。あなたと同じような方が、水泳の日本代表として頑張っています。ご参考までに。
http://web.archive.org/web/20020105224854/http://www.jsad.or.jp/
今週のお薦めの映画は、「いまを生きる」。私の好きなロビン・ウイリアムスが主演です。
彼はいつも優しい声で話すの。彼の笑顔が好き。 かしこ」
日記。
「僕は水泳選手として、日本代表選手になりたいんじゃないんだ。
みんな、誤解しないでくれ。
ただ平凡に、海に行って砂浜を恋人と歩きたいんだ、手を繋いでね。
ただ普通に、プールサイドでアイスクリームを食べたいだけさ、水着でね。
車椅子ではトイレに行けないプールが多い。
そもそも、デートの最中にトイレに行くにも、誰の手を借りればいい? 恋人に?
出来る訳が無い。
トイレで誰が僕を支えてくれる? 恋人が?
もう、いい。明日はいつもの通り、障害者スポーツセンターで筋肉トレーニングだ。
夏はサザンオールスターズ、冬はユーミン。
スキーもいいよね。二人でペンションに行ってね。
車椅子が使えるペンションが全国に一体、何軒あると思う? みんなは、知っている?」
彼女からのメール。
「あなたの笑顔は素敵でした。ロビン・ウイリアムスに負けないくらい。
赤いヘルメット、お似合いでしたよ。コーチもあなたがおっしゃるようにとても素敵な方ね。
(私には勝てそうもないかも。^.^)
あなたの上半身は筋肉の固まりで、とても逞しく思えた。
汗だくのあなたを見て、今度はタオルを持参しなくちゃ、と思いました。
車椅子かっこいいね! あんなにスポーティなものだとは知りませんでした。
いつ軽井沢で80Kmのレースがあるんですか? 絶対に、応援に行きます!!
プールでも、海にでも行きませんか? ……私も自信がないけれど。 かしこ」
(上へつづく)