「私は製薬会社に勤めています。私の会社が作っていたのが、“マイサリ”です。
私が産まれる前の話です。でも、今、私はその会社に勤めています。
会社の仕事でインターネットを検索していたら、偶然、あなたのホームページがヒットしました。
そして、あなたの日記を読みました。
実は、私は薬が専門ではありません。私は英文科を出ています。
だから、どうして私の会社の薬があなたに影響したのか、正直なところ分かりません。
これから勉強します。そして、どうしたらいいのかを考えます。
勉強したら、また、メールを送ります。あっ、お忙しいでしょうから、お返事は結構です。かしこ」
可能な限り、僕は彼女からのメールに返信した。
でも、この最初のメールにだけは困った。「どうしたらいいのかを考える」?
どうするつもりなんだろう? 僕自身はどうして欲しいのか、さっぱり分からなかった。
僕のメール。
「メールをどうもありがとう。そうですか、“マイサリ”の会社にお勤めですか。
僕のために“どうしたらいいのか”を考えて頂けるとのこと。
僕には“どうしたらいいのか”という選択肢が有るようには思えませんが……
でも、お心づかい、ありがとうございます。
また、日記の感想をお待ちしています。」
日記。
“ 今日、メールを貰った。この日記の読者らしい。なんだか、僕の生い立ちと関係がありそう?
勉強したら、またメールをください。待っています。
そして、いつも、この日記を読んで頂いている皆様、メールをありがとう。全部、目を通しているよ。
ところで、今日の健康診断で、面白いことが有った。
心電図の技師のお姉さんが、僕の足首のところまで電極を苦労して引張りあげていたときだ。
(僕の“足首”はみんなより、ずっと上にあるんでね。)
そのお姉さんが、感嘆詞とともにこう言った。
「あなた、お酒が飲めないでしょう?!」
「どうして、分かるんです? 心電図が真面目だから?」
「ハハハッ、ほら、腕が真っ赤よ。」
採血のためにアルコール綿で腕を消毒したが、その跡が真っ赤になっていた。
僕は動く“アルコール検知管”だ。君は? ひょっとして動く“アルコール分解酵素”かい?
ここで、クイズだ…… ”
僕のところには、彼女のメールがただ一通届いているだけだったが、指が「皆様」と打ってしまう。
彼女のメール。
「こんにちは。
“マイサリ”は、本当は不良品だったようです。 あの薬はラセミ体だったとのことです。ラセミ体というのは……」
2通目のメールが次の日に届いていた。勉強家なんだ、彼女は。
彼女のメール。
「ラセミ体というのは、右手の化合物と左手の化合物が混ざっているものを言うそうです。
本当は、同僚に聞いたので、このへんのことは良くわからないの。
とにかくラセミ体は同じ化合物でも、右手と左手のように重ねあわせても、全く重ならないものを言うのだそうです。
“マイサリ”は右手と左手があったけれど、そのうち、「左手の“マイサリ”」だけが、「問題有り」だったそうです。
でも、あの当時は、まだ科学が発達していなくて、それが分からなかったの。
もし、右手の“マイサリ”だけを取出すことができ、あなたのお母さんがその右手のほうだけを飲んでいたら、良かったのにね。
今では、右手の“マイサリ”だけを作ることも出来るそうです。
また、メールを出します。昨日の日記に書いていたクイズの答えは“カサブランカ”。かしこ。」
ふ〜ん、映画が好きなんだ。
「夕べはどこにいたの?」
「そんな昔のことは忘れた。」
「今夜は何をしているの?」
「そんな先のことは分からない。」
僕のメール。
「“マイサリ”のこと、ありがとう。薬に右手と左手があるなんて知らなかったな。本当は、どんなものなのか想像できないんだけどね。
映画が好きなのですか?どんな映画が好きなの?今度は映画のことも教えてください。では。」
日記。
“ 夕べは、蒸し暑かったね。みんな、眠れたかい?
そう、OK。僕も大丈夫、いつもの通り爆睡さ。
クイズの答えを送ってくれた皆様、どうもありがとう。
正解は「カサブランカ」だ。正解の人には、プレゼントとして、“映画で覚える英語”サイトのURLを送るね。
ところで、薬にも右手と左手が有るなんて、知っていた?
僕はもちろん知らなかった。
どうやら、僕の足が短いのは、「左手の“マイサリ”」のせいだったらしい。
僕はてっきり、意思の弱いおふくろのせいだと思っていたよ…… ”
彼女のメール。
「昨日の日記に、抗議します!!
あなたの体は、お母さんのせいではありません。お母さんは、どこも悪くない。
あの当時は、妊娠中に薬を飲むと障害児が産まれるなんてことは、誰も知らなかったのよ。
だから、あなたが産まれる瞬間まで、あなたがどんな様子で産まれてくるのか、お母さんも知らなかったはず。お医者さんにだって。
「意思が弱い」こともないと思う。誰だって、苦しいときには、薬を頼ると思います。
絶対に、あなたのお母さんは、悪くない!!……悪いのは私の勤めている会社かもしれません。調べてみます。
映画は好き。最近はビデオで見ています。なかなか、映画館に行く時間がないのが寂しい……。かしこ」
僕は、ずっとおふくろを怨んでいた。
おふくろさえ、あの時、薬を飲まなければ僕は別の人生を歩いていたはず。
製薬会社を怨んだことは無かった。
調べる? 一体、何を?
調べても、僕の体がどうにかなるものでもない。
僕のメール。
「おふくろは、僕のおふくろです。僕が30年以上どう思ってたか、あなたには理解できないのでは?
それに、今更、“マイサリ”のことを調べても、どうなるものでもありません。あなたの貴重な時間を無駄使いするだけだと思います。
大丈夫、僕はあなたの会社のことなど、どうも思っていませんので。
ただ、あの時、おふくろが薬を飲むことをちょっと我慢してくれていたら、と思っているだけです。
お心づかいは、大変ありがたいですが、そこまでやって頂かなくても結構です。では。」
日記。
“ 親の恩は、山よりも高く、海よりも深いってね、昔の人は言ったものです。
でも親が自分の苦痛から解放されるために、子供に不幸を与えてもいいのかね。
さて、今日の新聞から「車椅子」用の高速バスが登場! ――遅い! 遅いよ。公共の乗り物が…… ”
もちろん、彼女からは抗議のメールが届いた。プリントアウトすると、A4で2枚だった。
返信はどうしたものか。きっと、どう書いても理解してもらえないんだろう。
車椅子の修理に出かけよう。僕の夏は例年通り、ロードレースの練習で終わるだろう。
本格的なレースの前にスポークの修理をしておこう。
滲む汗を拭きながら、街の歩道を車椅子で身体障害者スポーツセンターに向かう。
夏は僕が嫌いな季節だ。
つづく
【注意】
これは完全にフィクションである。映画名、音楽名、俳優名、小説名は実際に存在するものだが、「マイサリ」は実存しない。
「マイサリ」と類似する名称があったとしても、偶然である。
ただし、「サリドマイド」という薬により、奇形児が産まれた薬害事件は実際に有った。
二度と同じ悲劇が起こらないように。二度と繰り返しませんように。
(上へつづく)