12月で、僕と彼女たちの関わってきたプロジェクトは一段落する。
それに向けて、僕は彼ら/彼女らの仕事を収束させていった。
彼女のチームはある程度の評価が得られるところまで、きていたが、他のチームは来年への積み残しがかなり有った。
そして、クライアントの上層部とチーム員の評価に対する会議が開かれた。
彼女の評価は始めから決められていたようだった。
それは、リーダーとの相対的な評価になり、課長である彼を部長にするためには彼女の評価は低くせざるを得ないということだった。
僕は納得できないと言った。
「でもね、きみ。これはうちの会社のことだよ。そこまで、きみたちの会社に踏み込んでもらいたくないね。」
「しかし、我々もコンサルティング会社として、いかに御社の活力を上げるか、いかに停滞した空気を一掃するかを真剣に考えています。
そのためには、多少、御社にも立ち入ったことを言わざるを得ないこともあります。」
「それは解っている。それは、それでいいんだよ。
でもね、彼はもう年齢が年齢だ。
彼を上にあげないと、下のものを上に上げられない。
それもまた、若手起用を妨げることになるじゃないかね。そうだろう?」
「彼はそれでいいでしょう。しかし、彼女の評価が低すぎます。彼女の能力はご存知のはずですよね。」
「バランスじゃよ。バランス。そうだろう? きみたちの評価では、あまりに彼女が目立ちすぎる。
これでは、彼の存在が薄いだろ? それに彼女だってまだ若いんだから、チャンスはいくらでもある。
それに彼女にしたって、ここまでくれば、もういいんじゃないのか? あの子は、まぁなんて言うか、うちがちゃんと障害者も使ってますよ、という看板だけなんだから。」
僕が立ちあがるより先に、ボスが僕の腕を引きとめた。
浮き上がらせた腰を、仕方なく椅子におろした。<一体、この会社の人間はどうなってんだ。> 僕は喘ぎながら、そう思った。
「彼女には新しいポストに移ってもらったらいかがでしょう? どうせ、今回のプロジェクトで新たなポストが出来ますし、彼女にもうってつけではありませんか?」
僕のボスは冷静にそう言った。僕はまだ、息づかいが荒かった
新たなポストは彼らの会社が国際化を図るための、調整部署だった。
彼女が英語を使える場所に移動するのは、僕も不満は無かった。それに、そこに行けば、海外での仕事も夢でなくなる。
「そうだな…、そこに主任として行ってもらえば、バランスもいいか。」
この男は、世の中が全て、バランスよく出来ていると単純に思っているらしい。
プロジェクトの積み残し作業について来年のスケジュールを確認し、自分たちの会社に戻ると、ボスに呼ばれた。
「最近変わったな?」
「そうですか?」
「以前はあんな場面でも、きみはポーカーフェイスでいた。
それにミーティングでの発言内容も自分の意見を強く押し出すようになってきた。
時には感情的すぎるくらいにね。
だから、個々の発言を見ると、計算されずに、その場の発言も多くなった。
だけど、全体的に見ると、今のほうがずっといい。
パフォーマンスも上がっている。
前は、なんて言うか、良い意見だが、つまらない、って感じだ。
もちろん、ビジネスだからそれでもいいと言う意見もあるだろう。でも、それでは味気ない。
そうじゃないか?」
「前はそんなに、つまらなかったでしょうか?」
「ほら、きみ自身が気づいてなかったんだ。
例の彼女に対する評価について、発言した時は、彼女に対するきみの個人的思いれがあるせいと思っていたが、考えてみたら、それだけではない。
最近は仕事も早めに切り上げることもあるって聞いているよ、と言っても他からみれば結構遅いが。」
「仕事はスケジュールを守ってやっています。」
「そんなことはいい。きみのライフスタイルが変わったってことだ。
うちの女性社員の評判では、最近は生き生きとしている、そうだ。ついでに言えば、顔も引き締まり、スタイルも良くなったとのことだ、うらやましい限りだ。」
「…」
「きみはこれまでは、可も不可もなくだった。
まぁ、上司の立場で言えば、仕事は良くやる、クライアントの顔は立て、同僚とも問題を起こさない、という典型的な優等生タイプだから、手はかからず、目を離していてもいいので楽な部下だった。
でもな、本当のことを言うと、それだけだ。
もし、このままでいけば、小さく収まった、つまらないサラリーマンで終わるだろうって思っていた。
なんとか、それだけは避けようとおれも考えていたところだった。
ところが、この2〜3ヶ月できみは大きく変わった。
おれが見てもおもしろくなった。
頼もしくなり、それにタフになった。何がきっかけで変わった?」
1枚のはがきだ。そして、そのはがきから始まった、彼女との交流だ。
「ゴッホかな。」
「ん? 絵描きのゴッホか?」
「どんなことにも、きっかけてあるもんですね。」
「…まぁ、いい。その調子でやってくれ。」
プロジェクトの最終プランを作りあげると、ランニングをやるため、会社をでた。
10
12月最後の会議のために大阪に行った。
来年の人事が発表になっていた。
リーダーの男はプロジェクトチームの目的より、自分のポストの重要性を話題にしたがっていた。
彼女が今までの活動の総括を報告し、メンバーに感謝の意を述べ、さらに来年以降の協力もお願いし、会議を終えた。
リーダーが臆面もなく、僕に飲みに行かないかと誘ってきたが、断った。
冬の都会はきれいだ。空気も冷たくて気持ちが良かった。
僕らは2時間かけてランニングをし、川べりのベンチで休んでいた。
街が夕闇につつまれてきた。夕焼けがビルの影を浮かびあがらせ、川面に様々な色の光が映えり、橋がライトアップされ、刻一刻と空と街の表情が変わっている。
僕がその色を感じていると、彼女が言った。
「冬は日が沈むのが早いって言いますよね。」
「そうだね。」
「それは、“さびしい”という感情を込めて、みんなは言っているみたいですけど、そうなんですか?」
「人によっては、そうかもしれない。」
「どうですか?」
「僕はこの季節の、この時間が好きだよ。」
「冬の夕暮れが、ですか?」
「うん。」
「どうして?」
僕は言葉に詰まった。
空が夕焼けの朱色と夜の藍色のコントラストに染まってきた。
それは目の見える人間に対してさえ、説明の難しい美しさを湛えていた。
僕は言葉の限界と神に対する嘆きを感じた。<何をどうやって説明すればいいんだ!>
彼女が頭を僕の肩にもたれかけてきた。
「それは、この季節の、この時間の街の“色”が好きってことですね?」
「…うん。」
そのまま、彼女は黙った。
誰に対しても言えない悲しみを彼女は、生まれてからずっと心の奥に押し込めて生きてきていたのだ。
神に嘆くことさえ、むなしくなるような悲しみをこらえて、彼女はこれからも生きていかなければならない。
街を闇が支配してきたが、彼女は、それすら理解できない世界に住んでいた。
「その色はどう、心を動かすのですか?」
「……コンサートのあと、スポーツのあとの余韻が心のなかに響いてくる。
最初は小さな余韻が、徐々に大きくなってくる。
その中には、コンサート中の激しさや、スポーツの最中の苦しさも、そして、もちろん、楽しさも混ざり合いながら、心を包んでくる。
それが、やがて静かに、気が付かないくらい、静かに小さくなっていく、楽しさも、苦しさも。
でも、決して、さびしくはない。また、明日があるからね。
…あまり、うまく表現できなかったけれど解ってもらえたかな?」
「よく、解ります。……お願いがあるんです。」
「なに?」
「お化粧のやり方を勉強して欲しいんです。そして、私にお化粧をして欲しいんです。」
「僕が?」
「ええ。今までは、あまりしていなかったでしょ?」
確かに、彼女はいつも口紅をつけているくらいだった。
「今までは、お化粧の必要性も解らなかった。
自分のためでなく、他の人に必要と思うときは、母がやってくれていました。
だけど、自分でできるのも口紅だけだし、今年の“冬の色”はこれです、なんて言われても私には関係ない。
色が似合うというのも、どんなことか私には解らない。……私の顔の“色”や“形”は好きですか?」
「もちろん、好きだよ。」
「きれいですか。」
「もちろん。」
「一緒に歩いていて、恥ずかしくないですか?」
「恥ずかしくなんかない。」
「お化粧したら、もっときれいになりますか?」
「そのままで十分だよ。」
「でも、他の人と比べてですよ……。
他の人と比べてもきれい? 他の人と比べても恥ずかしくない? 他の人の方がきれい? 他の人と比べても好き? 他の人のほうが……」
彼女の唇にキスをした。
冬の冷たさが嘘のように暖かい。
彼女の腕が僕をぎゅっと抱きしめる。僕も彼女を抱きしめる。
僕の人生を覆っていた不安と恐怖が消えていく。安らぎが僕を覆いつくす。
「好きだよ。」
「……口紅を塗ってくれます?」
僕は彼女の唇に、“今年の冬の色”を塗ってやった。
「きれいだよ。世界中の夕暮れを合わせたよりもきれいで、世界中の、どんな街の冬の夕暮れよりもきみが好きだ。」
「ありがとう。私もです。……今まで聞いたどんな音楽よりも、どんな風の音よりも、どんな鳥の声よりも、あなたの声が好き。」
「僕の心にあった壁が、壊れていくよ。
自分を閉ざしていた壁が、崩れていく。僕が気づかないうちに、自分で築きあげてしまった壁を、きみが壊してくれたんだ。これから、僕は、僕自身に戻っていく。」
「私も、やっと信頼できる人ができた。
あなたの言葉を通して、世界の成り立ちや絵の意味や色がわかってくる気がする。あなたの隣なら、安心して走って行ける。」
「きみをずっと守ってあげたい。」
もう一度、“今年の冬の色”に僕は唇をつけた。
11
2月の寒さの中、僕らは準備運動をした。
僕らの初めての、公式のハーフマラソンレースがまもなく始まる。
「いい子で待っているのよ。」
彼女は、盲導犬の頭を軽くたたいた。
空が澄みきっていた。
たった1枚のはがきから、ここまでやって来た。そして、これから、21kmのレースが始まる。
「次は、フルマラソンに出ようぜ!」
「まずは、今日のハーフでしょ!」
「水は5kmと10kmでいいかい?」
「欲しくなったら、左手を上げるわ。」
もう一度、僕の右手首と彼女の左手首をつなぐ紐の結び目を確認した。
「やっと、ここまで来た。」
「うん。でも、まだ“ハーフ”よ。」
「そうだ。まだ“ハーフ”だ。」
僕らのフルマラソンは、まだ始まったばかりだった。
呼び出しがかかった。
「コールだ、さぁ行こう。」
スタートの位置につく。ピストルが空に響いた。
僕らは、走り出した。
二人で。
終