その後、大阪での会議のあとは必ず、彼女と話しをするようにした。
彼女と話しをすることは、僕の心のリハビリでもあった。
また、彼女にとっても、楽しい時間が過ごせるようだった。僕の前で、笑うことが以前より多くなった。
彼女は、図書館で僕の病気の本を探し(点字に訳されている本はあまり多くはないらしい)、この病気の患者にはどう接したらいいのかを勉強していた。
ぼくは、ワープロで入力した日本語を読み上げてくれるソフトを探し、彼女のPCにインストールしてあげた。
このソフトを入れてからは、僕と彼女はE-mailでやりとりができた。
彼女はいつも短いが、よく考えられた暖かい言葉を送ってくれた。
決して、否定的な言葉を使わず、それでいて、僕を激励するわけでもない言葉を選んだ。
僕が気づかずに使っている“後ろ向き”の言葉を丁寧に“前向き”の言葉に言い換えて、根気よく返事をくれた。
それは、あまりに自然だったので、しばらくは、言い換えている事実すら僕は気づかなかった。
また、僕が新しいことにチャレンジすることをためらっていると、その新しいことを真剣に、いかにも興味深く、質問してくる。
僕がその質問に答えていると、いつのまにか、気が付いたら、そのことにのめり込んでいる自分がいることもあった。
彼女との会話を通して、新しいことにチャレンジする興奮もおぼえた。
彼女はカウンセリングの能力も身に付けつつあった。
彼女の目は角膜移植をすれば、見える可能性があることも知った。
しかし、日本ではまだ、アイバンクに登録している人は少なく、彼女自身もあまり、その点だけは希望を持っていないようだった。
彼女自身は脊髄バンクに登録をしていた。
< わたしじしんが、ちょくせつ、ひとのいのちを すくえるなんて すばらしい ことでは ありませんか? >
それまで、僕はどこに行ったらアイバンクや脊髄バンクに登録できるのかすら、知らなかった。
また、彼女はマラソンにも挑戦しようとしていた。
彼女は小学生の頃、目の見える人たちと同じ学校へ行っていた。
それは両親の希望だったが、かなり教育委員や学校、そのPTAから難色を示されたらしい。
しかし、両親の強い希望により、近所の公立の小学校に入ることができた。
教科書はボランティアと両親が作ってくれた点字の教科書を使っていたので、みんなと同じ授業を受けることができたが、運動会だけは嫌いだった。
彼女のやれる種目が無かったので、運動会の日は5年生まで学校を休んで、布団の中で一日泣いていたらしい。
6年生の時の担任は、クラスを5人ずつのチームに分け、チームのみんなが運動会の種目で何位になったかをクラス内で、点数を競わせることにした。
彼女のチームは男の子が3人で女の子が2人のチームだった。
彼女自身もなにか一つの種目に出場しないと、チームのみんなに迷惑をかけることになった。
しかし、彼女には、どんな種目もやれるとは思えなかった。
初めは、チームの他のみんなも彼女のことは半分諦めていたが、リーダーになった男の子はちがった。
彼は負けん気が強く、粘り強い子だった。
彼は彼女に200m走に出るように言った。
「これは、走るだけやから、簡単や。」
「そんなこと、ゆうても、私走ったことあれへんし。こわいわ。」
「大丈夫や、うちらがみんなでなんとかするから、なっ、がんばりや。」
そう言うとその子はチームの他の子と、なんとか彼女を全力疾走させる方法を考え始めた。
その日から放課後になると彼女たちのチームは、その日浮かんだアイデアを彼女に試してみることにした。
結局、彼女の脇をみんなが鈴を鳴らして伴走することになった。
200m走はグランドを1周する。
最初は直線コースでも彼女は恐がっていた。
しかし、毎日、毎日練習をし、本番当日では、彼女は生まれて初めて、カーブを全力疾走した。
その時の心地良さと爽快感と友人たちへの信頼感が、彼女には忘れられなかった。
< ふるまらそん に でたいけれど れんしゅう と ほんばんで ばんそうを してくれる ひとを さがして います。でも なかなか みつかりません。いっしょに はしって いただけませんか? >
しばらく迷った末に僕は大阪に行くときは、トレーニングウエアを持参することにした。
僕にはマラソンの経験は無かったが、彼女と走れるなら、いちから、練習してもよかった。
毎日、仕事は早めに切り上げ、ランニングの練習をした。
初めは1kmも走ると足が音をあげ、3kmも完走できない状態だった。
しかし、彼女とひもで手首をつなぎ、大阪の市営グランドのトラックを走ることは、これまでの人生で最も価値のある充実した時間だった。
そこでは、命令もなく、義務もなく、未来も過去もなく、ふたりの人間が走ることだけのために時間をすごせた。
3kmはやがて、5kmになり、12月になる頃には10kmを二人で走ることができるようになった。
僕は彼女のペースを考えて走り、彼女は僕を信頼して走っていることが解った。
走っている間は二人の息づかいしか聞こえない世界になっていた。
彼女にとっても、走ることにより、少しでも、目が見える人に近づけるという気持ちがあったのかもしれない。
走る距離が伸びるたびに、彼女は今まであった、目の見える人には負けまい、という妙な力みがなくなってきていた。
ある日、そのことを聞いてみた。
「最初はそう思っていました。でも、今はもう、そんなことは思っていません。
走ることを、純粋に楽しんでいるだけです。走ることとその後の充実感で、十分です。
楽しいことが増えたので、その分、普段の生活から、変な力みが消えたのかな?」
走り終えると彼女はいつも汗も拭かずに、真っ先に僕に向かって言った。
「ありがとう。」
僕はいつのまにか、本当に自分のやりたいことを優先的にやれるようになっていった。
(上へつづく)