「どんな絵を選んでほしいと、お店の人に言ったの?」
「とても疲れている人がいる。その人は心から休みたいのに、休むことを罪悪と考えている。
その人を休ませてあげたい。できるものなら、この腕でぎゅっと抱きしめてあげだい。
だからシンプルで力強く、それでいて、暖かい絵を送りたい。」
「…」
優しい笑みが彼女の口元に静かに浮かんでいた。
「どうして、そう思ったのかな?」
「休ませてあげたいってことですか? それとも、抱きしめてあげたいってことですか?」
会議のときの彼女を思い出した。
あやふやな質問の場合には、より具体的に要点を突いて質問を返してくる。冷静で、素直な思考力の持ち主であることを再認識してしまった。
「まず、休ませてあげたいってこと。」
「今年の4月から、ずっと一緒に仕事をしてきましたよね。それで、7月と今月の会議で声の様子がおかしかった。」
7月はこのプロジェクトが始まって3ヶ月目にあたる頃だ。
だいたい、この頃になると、どんなチームでも、最初の壁にぶつかる頃だった。
最初の勢いが急減し始め、中だるみがチーム全体を覆い、多くの問題に対する、多くの解決方法が提示され始め、どこから手をつけたらよいか、誰もが途方にくれる頃だ。
この時ほど、リーダーの力量が試される時はない。
僕は彼ら/彼女らを元気づけ、深い森林に迷い込んだ猟師のために地図を用意し、何もしないリーダーを安心させ、彼女の提出する議事録を読み、スケジュールを検討した。
僕の疲れも、ひとつのピークに達していた。
しかし、クライアントの前では、決して、疲労の色を見せなかったはずだ。
もし、僕が疲れたら、彼ら/彼女らは、もっとやる気を無くすことになるので、いつもより、なおいっそう明るい調子で会議に参加していたはずだった。
たとえ、僕の状態が解ったとしても、他の会社の人のことまで誰も心配はしないのが関の山だ。
「私の耳は普通の人よりいいと思います。何しろ、耳だけを頼りに周りの世界と接してきましたから。
二十歳のころから、人の声を聞くと、その人の状態が解るようになったんです。
それに、多分、以前の私と似た状態だと思った。」
「僕が?」
「そうです。」
「どんな状態?」
「以前の私は本当の私を生きていなかった。だから、そういう人の話し方がわかるんです。」
「どんな、話し方をするんだろう?」
「言葉を慎重に選びすぎ、感情を決して表にださず、トーンは一定の調子で、自分よりも相手の立つ場をまず考えた発言をする。
自分の心に踏み込んでくるような他の人の発言や質問のときは、必ず黙り込む時間が長くなる。
できたら、そういう質問には答えずにいたいと思っている。
もし、答えるときでも、すこしおびえたような、自信のない震える声で話す。まるで、自分が生きていること自体が、周りに迷惑をかけているという幻想をいつも持っている人の話し方。」
「……そうかも知れない。」
「ほらね。今もそう。」
彼女の笑みにより一層、優しさが増した。
僕はコーヒーを飲み、煙草に火をつけ、心を落ち着かせた。彼女も手でストローを探し、ジュースを飲んだ。
「そろそろ、帰りの新幹線の時間なんだけど、もう一つの質問にも答えてくれるかな?」
「何故、抱きしめてあげたいと思ったか?」
「そう。」
「安心させてあげたかった。
この世の中はそんなに悪意で満ちているわけではないってことを教えてあげたい。
誰もあなたのことを攻撃もしないし、知らない人ともすぐに友達になれることも教えたい。
なにも身構えることはないし、もっと心を開いたほうが疲れないってことも。
でも、心を開くことが恐い人だから、私が守ってあげられたら、きっと安心して自分を出せるかなって思いました。
そんなに、がんばらなくていいんですよって、昔の私に言いたかった。私もそんなに強い人間ではないけれど……。」
「どうして、僕がそんなにおびえていると思うの?」
「以前の私がそうだったから。」
それから、新幹線の時間まで、彼女のこれまでの経験や苦労、どうして今の彼女になれたのか、それに、僕の生い立ちや病気のことを話しあった。
こんなに素直に自分のことを話す人は初めてだった。それと同時に、他の人に自分の病気のことや、両親のことを話すのも僕にとっては初めてのことだ。
彼女は終始、優しい笑みを浮かべ、僕の言葉に耳を傾け、最後まで聞いてくれた。僕の主治医以外にこんなに心を開ける自分にも驚いた。
テーブルの脇に伏せている彼女の盲導犬までが、そっと目をとじ、僕の話しを聞いてくれているようだった。
7
先日の中間報告は、クライアントの上層部に対する報告で、我々が直接、報告書の形で行ったが、今度は、チームメンバーの一人が社内の全員に報告する会が、開かれることになった。
本来、この仕事はリーダーがやることになっていたが、彼女のチームのリーダーは、この仕事を彼女にやらせることにした。
これには、僕も戸惑った。
彼がやるよりは、もちろん、彼女のほうが適任だと、普通なら思うところだったが、この発表はどうやっても、30分以上かかる。
原稿なしでは無理だ。それにもし、内容を忘れたときでも、普通なら話しのきっかけを作るスライドも彼女には役に立たない。
リーダーと二人で、話しをした。
「この発表は、彼女より、本来はリーダーのあなたの仕事かと、思いますが。」
「いや、彼女ならできる思うんだよね。」
「30分以上もかかる発表ですよ。原稿なしでは、無理でしょう。」
「大丈夫、大丈夫。もし、彼女が、つかえたら、僕がステージの脇から小さな声で教えてあげるから。彼女にもそう言ってあるよ。それで、彼女も了解したんだ。それに、点字の原稿でも用意すれば、大丈夫だろう。」
彼が、プロンプトの役をやってくれるなら、任せらるかもしれないと思った。
発表当日は、社長以下200人くらいの人間が講堂に集まった。
プロジェクトの発表が終わったあとは、この場で、立食パーティをやることになっているので、壁際には種々の食べ物も用意されていた。
演者は全員ステージの上で、座って発表を待っていた。
4つのチームが発表するので、2時間半くらいで終了する予定だ。彼女の発表は最後だった。
他のリーダー達はみな、原稿とスライドを見ながら発表していたが、彼女だけは、聴衆のほうに整然と顔を向け、話し始めた。(点字の原稿を用意していなかったのだろうか?)
彼女の発表はいつもの通り、解りやすく、声もよく通り、聴衆の心を捉えていた。
彼女の発表が始まって20分くらいすると、食事の準備のため、食器類が持ち込まれ始めた。
その時だった。
後ろで、心臓が止まるほど大きな音がした。
振り返ると、誰かが皿を落として割った音だった。
聴衆はみな後ろを振り返り、笑い声をだしたが、それもすぐに静まった。
僕も安心したので、彼女を見ると、彼女の顔面が蒼白だった。
今の音に脅えているようだった。
気がついた司会者が、皿の割れる音なので、心配せずに続けるように言った。
しかし、彼女はつかえたままだった。唇が震えているのが解った。
話しの原稿を忘れたのだ。
彼女はパニックに陥っていた。
演台を押さえる手が震え、それがマイクを通して聞こえてきた。
プロンプターのリーダーの声が聞こえないのだろうか?
僕はステージの近くまで行き、彼女に聞こえる声で、原稿の続きを言ってやった。
全員が僕を見たが、しょうがない。
彼女はようやく少し、落ち着きを取り戻し、発表を再開した。
もう、大丈夫だろうと思い、席に戻ろうとした時、聴衆の後ろのほうに、リーダーの男が座っているのが見えた。それも少し、笑みを浮かべながら。
彼女の発表が終わり、全員が拍手をしている間に、彼のところに駆け寄った。
「どうして、ここに!ステージ袖で、待機しているはずだったでしょう!」
「いやぁー。彼女ならうまくやれると思ったから、今日は、ここで聞いていたんだ。」
彼はニヤニヤしながら、言った。
「最初の約束と違うじゃないですか!」
「うーん。まぁ、彼女は僕よりも優秀だという評価も、もらっているそうだから。」
彼の椅子の下に皿の破片が散らばっていた。……この男がやったんだ。
「……。外で話しましょう。」
「何故?」
「いいから、外へ!」
僕が、彼を椅子から立たせようとしていたら、誰かが、僕の肩をつかんだ。
「よせ。」
振り返ると、僕のボスだった。僕は彼の手を振り払おうとしたが、彼は力まかせに僕を引きつけ、言った。
「それよりも、彼女のところへ行ってやれ。」
僕はその男に一瞥をなげると彼女を探した。
彼女は休憩室で泣いていた。同じチームの女性社員が何人か、彼女を慰めていた。盲導犬も心配そうに主人を見つめている。
彼女に近寄り、肩に手をおき、話しかけた。
「どうした? 今日の発表は良かったよ。」
僕が話しかけると、もっと鳴咽が大きくなった。
「びっくりしたら、誰だってああなるさ、しょうがないよ。」
首を振りながら、肩を上下させ、声を引きつらせながら、やっと話し始めた。
「な、何がなんだか、わからなくなって、何も思いだせなくって、それで、それで、リーダーの声も聞こえないくらい、私、あわてちゃって……。」
僕は迷ったが、リーダーがあの場に居なかったことは黙っていた。
「さ、誰もなんとも思ってないし、あの後だって、最後まで、きちんと発表できたじゃないか。みんなが待っているよ。パーティに行こう。」
「いやっ、帰る。」
周りの女性社員もパーティに誘ったが、首を振りながら、黙って泣いていた。
その日は僕が彼女を家まで、送ってやることにした。
会社の前でタクシーを拾うとしたが、“犬”が同乗すると解ると、みんな走り去った。
仕方なく、僕が彼女から少し離れ、止めたタクシーの運転手に事情と料金の上乗せを提示し、やっと彼女と盲導犬を乗せることができた。
彼女はしばらく泣き続けたが、10分くらいすると、ようやく泣きやんだ。
「…私ってだめね。」
「そんなことはない。」
「ううん。だって、目が見えないことで、絶対に泣かないって決めていたのに。」
「泣きたくなることくらい、誰だってあるさ。」
「だって、泣いてもしょうがないことなんだもん。
泣いても目が見えるようになるわけではないし…。
他のことで泣いてもいいんだけど、目のことでは絶対に泣かないって自分に言い聞かせてきたのに。」
「僕も、足の指が大きいのを悩んで、泣くことがあるよ。くまのぬいぐるみを抱いてね。だけど、いっこうに指は小さくならないんだ。
自分の鼻が大きいのを悩んで泣く夜もあるよ、そんな時は、象のぬいぐるみを抱いて泣くんだ。」
「…こんな慰められ方、初めてです。」
「首用に、キリンのぬいぐるみもあるんだ。」
やっと、彼女の顔に笑みが戻った。
「でも、今日はありがとうございました。あの声が聞こえなかったら、どうしていいか解らなかったと思います。」
「僕の声?」
「はい。」
「たいした、声じゃないけどね。」
「でも、また困った時は、お願いします。」
「お互い様さ。」
「じゃ、おやすみなさい。」
「おやすみ。」
彼女の能力や普段の態度からは、とても想像できない悲しさが、彼女の笑顔の裏に隠されていることを僕は忘れていた……。
(上へつづく)